「カトリック宗教改革」3 イグナティウス・デ・ロヨラ①誕生~エルサレム巡礼

 ロヨラは、1491年ごろ、スペインの北部バスク地方、サンセバスチャンに近いところにあった小貴族の舘ロヨラ城で13人兄弟の末っ子として生まれた。ドイツでルターが宗教改革の声を上げた1517年、ロヨラは26歳で、スペインのカトリック両王の廷臣に仕える騎士の一人としてスペインの軍務につく。1521年、フランス王フランソワ1世がカール5世とのイタリア戦争を開始、イタリアとともにスペインに侵攻した際、パンプローナの防衛戦に加わり、大砲の砲弾を受けて右足を粉砕されるという戦傷を負う。なんとか命は助かったが、脚は不格好に曲がり、短くなってしまい、騎士として活躍する望みは失われた(生涯右足は不自由であった)。

「かれは26歳まで、この世の虚栄を追求する人間だった。特に名誉を獲得しようとの空しい欲望に激しくかられ、武術の修行に喜んで励んでいた。その頃、かれがある城塞にいたとき、強大なフランス軍が攻撃してきた。・・・かれは城主にいろいろな理由を述べ、他のすべての騎士が反対意見であったにもかかわらず、城主を説得して、防衛を決意させた。・・・長い間戦闘が続いた後、一発の砲弾がかれの脚に命中した。片脚全体が砕かれ、弾丸が両脚の間を突き抜けたので、他の脚も深傷を負った。」(イグナティオ=デ=ロヨラ『ある巡礼者の物語』岩波文庫)

 1年間の療養生活の間、イエス・キリストの生涯の物語や聖人伝を読みはじめ、やがて、彼の中に聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれてくる。健康を回復すると、ロヨラは1522年3月25日にモンセラートのベネディクト会修道院を訪れる。そこで彼は世俗的な生き方との決別を誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げ、カタルーニャのマンレサにある洞窟の中にこもって黙想の時を過ごした。そこでイグナチオは啓示を受けたとされている。そして1523年から1524年にかけて、以前からの念願であった聖地イェルサレムへの巡礼を行う。かれの無一文でイェルサレムに行くという企てにはあらゆる人が反対したが、聖地にまでたどり着くかどうかは神の意志に従うだけであると反対を押し切り、苦難に耐えながらヴェネツィアに向かう。

「ヴェネツィアでは物乞いをしながら生活し、夜は聖マルコ大聖堂の広場で寝た。スペイン皇帝の大使の家には一度も行こうとしたことはなく、渡航できるための費用を探す特別な努力もしなかった。神がエルサレムに行くための手段を与えてくれるに違いないとの確固不抜な確証が魂の底に据わっていた。だから、人びとがどんな理由で挙げ、恐怖を起こさせようとしてもかれに疑いを抱かせることは決してなかった。」(前掲書)

 聖地イェルサレムへの巡礼は、十字軍時代以後も、マムルーク朝が比較的寛容だったので続いていたが、1517年にオスマン帝国がそれを滅ぼし、パレスチナを支配するようになったため、次第に困難になっていた。また1522年にはオスマン帝国がそれまで巡礼の中継地になっていたロードス島を征服したため、海上でも巡礼は困難になっていた。それでも、1523年7月14日、ロヨラを含む22人の熱心な信者たちを乗せた2艘の船は出帆。ヤッファヘ上陸し、そこから驢馬にまたがって、1523年9月4日に、一行はエルサレムに到着する。ロヨラは、エルサレムにとどまって、周辺の異教徒の回心のために献身しようとするが、先輩の勧告に従い帰国。

 1524年1月半ばにヴェネツィアに到着したが、そこからスペインに戻るには、ジェノヴァまで行ってそこから舟に乗るしかない。しかし、当時はイタリア戦争真っ只中。ヴェネツィアからジェノヴァまで歩いて行く途中、両軍の間を平然と歩いていたロヨラはカール5世軍に属するスペイン兵にスパイと間違われ、司令官のもとに連行される。しかし、司令官は彼を気が触れた人間だと判断して釈放。さらにフランス軍の捕虜にもなる。幸い、ロヨラを捕らえたフランス軍部隊の隊長がバスク系のフランス人であったために、ロヨラは手厚い待遇すら受けて、無事ジェノヴァに到着。そこで旧知の貴族に逢い、その人の努力で船に乗れることになり、1524年の春、バルセロナへ上陸できた。聖地巡礼行の1年間、ロヨラはさまざまな危険や障害、苦難、幸運に出会ったが、その中でマンレサ時代に作られた自覚は、肉付けされ、たくましく育っていったようだ。

マンレサ市街とモンセラートの山並み

モンセラートの黒い聖母

ルーベンス「イグナティウス・デ・ロヨラ」ノートン・サイモン美術館

セバスティアーノ・リッチ「イグナティウス・デ・ロヨラと聖家族」

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