「カトリック宗教改革」2 「イエズス会」創設

 自らを批判することによって宗教改革に反撃しようという試みは失敗に終わったローマ教皇庁に残された道は、宗教改革に正面きって反撃することだけ。それが始まる端緒となったのは、「トリエント公会議」である。招集したのは神聖ローマ皇帝カール5世。彼の意図は、キリスト教会の統一を再び回復するところにあったが、教皇パウルス3世(在位:1534年―1549年)はこの公会議を利用してカトリック正当説の確立に努力した。異端を異端として断罪するために、何が正当かをまず明らかにしようとしたのである。激しい神学論争が行われ、結局、一切の妥協と歩み寄りは拒否された。

 そして教皇パウルス4世(在位:1555年―1559年)は、異端に対して仮借ない戦いを開始する。彼は、プロテスタントや、さらに極端な再洗礼派(急進改革派で、宗教的自覚にもとづく洗礼を主張し、幼児洗礼を否定)といった明らかな異端はもちろんのこと、正統派の聖職者にまで疑いの眼を向けた。さらに、包括的な「禁書目録」を定めたのもパウルス4世だった。

 しかしこのような反宗教改革政策に限界があることは明らかだった。ローマ教皇庁の腐敗が否定できない以上、プロテスタントに反撃を加えつつ、ローマ教会自身の自己改革を行うことが求められていた。そうした方向でカトリック宗教改革運動を指導したのが「イエズス会」である。

 イエズス会の創始者はイグナティウス・デ・ロヨラ。バスクの中流貴族の家庭に生まれ、軍人となったが、フランス軍との戦闘で重傷を負い、長い病床生活の中で回心を経験。回復すると、厳格な禁欲主義的修業を行い、その体験を『心霊修業』という著作にまとめた。さらにエルサレムを巡礼した後、学業を修めようとスペインの各大学をまわり、1528年にパリに出る。1534年までに周囲にフランシスコ・ザビエルや6人の同志が集まり、ロヨラは彼らに『心霊修業』の内容を語って聞かせた。

 『心霊修業』の最も顕著な特徴は、その極端な実践性、方法性にあった。それは瞑想と研究の方法を詳細に解説し、それを一連の修業にまとめたもので、イエズス会士になろうとする者は、この修業をすべて厳格に修め、自らを新しい人間として造りなおさなければならないのである。それはいわば軍隊における新兵の訓練に似ていたとも言われる。

 イグナティウス・デ・ロヨラとその仲間たちは、ローマ教皇庁からは疑いの眼をもってむかえられたが、1540年、カトリック教会改革派の枢機卿コンタリーニの支持を得て、正式にイエズス会の創建を認められた。イエズス会の特徴は、『心霊修業』と同様にロヨラの性格を反映している。教団は軍隊的な秩序によって統制され、下位の者は上位の者にたいする絶対的服従を求められた。イエズス会士は会の求めに応じて、いつでも世界のどこにでも行くことを求められていた。また上位への昇進は長い年月におよぶ教育と試験によるものであって、縁故関係によるものではなかった。

 こうしたイエズス会の性格は、当時のローマ教皇庁の中にあっては特異なものであった。宗教改革が起きた一つの理由は、ローマ・カトリック教会は腐敗している、人びとを教え導くことになんの関心ももたないというところにあった。しかしイエズス会は腐敗もしていなかったし、教育的という点ではプロテスタントをさえしのぐものがあった。1597年に会が定めた「学事規則」は、組織教育の基本として禁制教育史に名をとどめているほどである。イエズス会の設立した学院の数は、1581年には144、1640年には518にのぼった。

 イエズス会の活動と言えば、神の福音がかつて延べ伝えられたことのない人びとに神の福音を伝えるアジア、ラテン・アメリカにおけるものが名高いが、闘いの本拠地はヨーロッパだった。それは、異端の教えに染まった人々を正しい道に取り戻す闘いだった。彼らの活動によって、ポーランドと南ドイツ地域はカトリックの支配下に戻る。当時最大のプロテスタント国家であったイングランドに対しても強力な戦況が行われ、エドマンド・キャンピオンをはじめとする多くの殉教者を出したが、宣教は失敗に終わった。

「トリエント公会議」ルーヴル美術館

教皇パウルス4世

「イグナティウス・デ・ロヨラ」ヴェルサイユ宮殿

「フランシスコ・ザビエル」神戸市立博物館

ティッツィアーノ「ミュールベルクの戦い後の皇帝カール5世」プラド美術館 

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