「カトリック宗教改革」1 カトリックの自己改革の試み

 宗教改革運動が始まると。時をおかずして、ヨーロッパ中の大学、神学者、高位聖職者、さらには人文主義者までが、新思潮とそれを宣伝する者たちに対して断固たる反撃に出た。例えば、ドイツのカトリック神学者ヨハネス・エック。彼は1519年の「ライプツィヒ討論」でルターを追及して、教皇や公会議の権威を否定する言葉を引出し、その異端的性格を明らかにした。またエラスムスは、当所はルターの改革に期待したが、1524年、ついに対決姿勢に転じる。人間は自分の救済のために何もできないほど堕落した存在ではないと、ルター教義の核心を攻撃。翌年ルターはこれに反論して、自己の立場をさらに明確に打ち出す。人間は徹底的に堕落した存在であり、魂の救済のために何かをなす意思も能力も持っていない。個人の意思を救いの問題に絡ませるのは、神を冒瀆することに他ならない、と。

 印刷術の進歩もあって、カトリックとプロテスタントの論争は拡大の一途をたどった。あらゆる争点について論文や攻撃文書が書かれ、回心録の類いも数多く出回った。カトリック側は、悪魔にそそのかされたプロテスタントたちがどれほど瀆神行為を犯しているか、彼らがいかに淫乱な輩であるかを繰り返し宣伝した。なかでも、聖職者の妻帯は格好の批判対象となった。イエズス会員のリシュオムは、ルターの個人的問題に狙いを定め、かつての修道女と結婚したこと、6人も子供をもうけたこと、食事や酒に目がないことなどを大げさに言いふらした。

「結婚の名のもとに、修道服を脱いで淫らな行為に走ったのは、だれなのか。神をも恐れず、ひとりの修道女を聖なる場所から引き出して、恥知らずな娼婦に転落させたのは、だれなのか」

 しかし、こうした攻撃が全く功を奏していないことは間もなく明らかになる。というのもローマ教皇庁の腐敗にこそ問題の根源があることは、カトリック側自身が説く知っていたことだからだ。ルターが指摘するまでもなく、教皇をはじめとする枢機卿は、いるはずのない自らの子どもや孫を枢要の地位につけ、私腹を肥やすことなどなんとも思っていなかった。

 例えば、教皇アレクサンドル6世(在位:1492年―1503年)は、愛人ヴァノッツァ・カタネイに生ませた息子のチェーザレ・ボルジア(まだ16歳でピサ大学の学生であった)をバレンシアの大司教に取り立てたし、他の二人の息子ホアンとホフレのために教皇領とナポリ王国領を割譲しようとした。「ファム・ファタール」として波乱の運命をたどり、その生涯や肖像が多くの美術作品、小説、映画に取り上げられているルクレツィア・ボルジアも教皇アレクサンドル6世の娘である。また、グイッチャルディーニに「衣装と名前以外に、聖職者の要素は何もない」と言わしめた教皇ユリウス2世(在位:1503年―1513年)は愛人との間に娘が3人おり、愛人からうつされた梅毒に苦しんだ。次のレオ10世(在位:1513年―1521年)は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状(「免罪符」)販売を認めたことで、ルターによる宗教改革の直接のきっかけを作った。このメディチ家出身の教皇は行列や宴会など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。享楽に満ちた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン」と非難される。教皇庁には未曾有の財政破綻が起こり、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウス2世の蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」とまで言われた。

 このように、多くの敬虔なカトリック教徒にとってさえも、ローマ教皇庁は悪の巣窟と化していたのである。宗教改革の広がりに恐れを抱いた教皇パウルス3世(在位:1534年―1549年)は人文主義の伝統を受け継ぐ聖職者を枢機卿に登用し、自ら改革の姿勢を示そうとする。これらカトリック教会改革派の枢機卿は、1537年、『教会改革に関する勧告』を作成、提出するが、自らの腐敗を公表するに等しいこの勧告は、すぐにプロテスタントの利用するところとなる。しかも教皇の収入が減少し、贖宥状や特許状収入が収入の過半を占めるようになっていた状況のなかでは、この勧告をローマ教皇庁が採用することは、実際には不可能であった。こうしてローマ教皇庁が自らを批判することによって宗教改革に反撃しようという試みは失敗に終わった。

「ルターの敵対者」 

 長い舌を出して恐ろしげな顔をしたライオン姿の頭上には「教皇レオ、反キリスト」と書かれ、彼がルターを破門に処して教皇レオ十世であることを示している

アレクサンデル6世を悪魔に擬した風刺画「我は教皇也」

ピントゥリッキオ「教皇アレクサンドル6世」ヴァザーリ回廊 フィレンツェ

アルトベッロ・メッローネ「チェーザレ・ボルジア」アッカデミア・カッラーラ

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「ルクレツィア・ボルジア」フォッグ美術館

ラファエロ「教皇ユリウス2世」ロンドン・ナショナルギャラリー

ラファエロ「教皇レオ10世」ウフィツィ美術館

ティツィアーノ「教皇パウルス3世」カポディモンテ美術館 ナポリ

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