「宗教改革の拡大」5 カルヴァン⑤ピカルディ―人

 カルヴァンとはどのような人間だったのか?出身は、フランスの東北部、ベルギーに近接するピカルディ―地方(中心都市は、ゴシック様式ではフランス一の高さを誇るノートルダム大聖堂があるアミアン)のノワヨン。つまりピカルディ―人。ピカルディ―気質というものは、かなり有名で、さまざまな俚諺(例えば「のぼせ頭のピカルディ―人」など)にも残っているほど。フランソワ・ラブレー研究家として有名なアベル・フランは、ジャン・カルヴァンを論じる際に、ピカルディ―気質に論及し、次のように記している。

「ピカルディ―人は、常に、誰かとあるいは何かを争っている。イギリス人相手に戦っていない場合は、貴族を相手に戦っていたし、イスパニヤ人を向うにまわしていない場合には、聖職者を向うにまわしていたし、既成制度に歯向かわぬ場合には、与えられた観念や思想に歯向かっていた」

 ピカルディ―人には、かっとなって反抗的になる気質があったようだが、すぐに思い浮かぶ人物はカミーユ・デムーラン。1789年7月14日のフランス革命勃発の火付け役になった人物だ。7月11日、三部会開催を推進し、民衆の期待の星だった自由主義的な財務総監ネッケルが罷免されたことに民衆の怒りが爆発。7月12日、弁護士でジャーナリストだった29歳のデムーランはパレ・ロワイヤルで演説を行った。

「ネッケル氏は罷免された。これは愛国者に対するサン・バルテルミー虐殺の合図である。今晩にも、スイスならびにドイツの全ての軍隊が押し寄せ、われわれを惨殺するだろう。われわれに残された方策はただ一つあるのみ。武器を取りにいくことだ!」

 この民衆扇動が7月14日のバスチーユ襲撃につながる。ただし、デムーランの最期についても書いておく。1794年、かつての友であるロベスピエールに対抗し、ダントンと共に、恐怖政治を終焉させようと寛容を主張するキャンペーンを展開。しかしそれが元となってサン・ジュストの告発によってダントン派と共に粛清され、裁判後に処刑されたのだ。単純な「のぼせ頭のピカルディ―人」だったわけではない。

デムーラン以外にも、バブーフ(フランス革命期の最も急進的な革命家で、1796年、革命独裁を通じて共産主義的独裁の理論は、のちにマルクスらに影響を与えた)やジュール・ミシュレ(19世紀フランスの歴史家でアナール派に影響を与えたロマン主義史学の代表者で、民衆を愛し、フランス革命の精神を擁護した)もピカルディ―生まれである。

 しかし、反対派との闘争に関わらざるをえなくなるまでのカルヴァンからは、むしろ穏やかな性格の人物という印象を受ける。彼は、キリストの福音を土台とする新しいキリスト教会のあり方を大著『キリスト教綱要』で示したが、その序文は『王に捧ぐる書簡』(1535年8月23日バーゼルにて)として自分を放逐した祖国フランスの最高責任者たるフランソワ1世に向かって書かれた。その内容は、新教徒たちはフランソワ1世が説いているような狂人でも愚人でも暴徒でもなく、ただ神の言葉のみによって生きているのであって、決して神の道にそむいたことはしていないし、これに反して、これを迫害する人びとこそ、悪魔の手先であることは確実だ、という強い抗議だが、言葉はよく選ばれており、王に捧げる書簡として、これにふさわしい敬意は十分に払われていた。

 さらにこの22年後に書かれた、『詩篇註解』(1557年)の序文(カルヴァンの自叙伝と言ってもいい性質)では次のように記している。

「私は、常に人に知られずひそかに生活しようと考えていたのに、神は、あらゆるところへ私をお引き回しになり、いろいろ有為転変によって右往左往おさせになったのであるが、しかも、どこかで私が休息するという風には断じてしてはくださらず、その結果、私の性格がそうではないのに、明るみへ私をお出しになり、いわゆる一勝負やるようにおさせになった。そして事実、フランスのくにを後にして、意を決してドイツ[注:ドイツ語を話す地方、ここでは、スイスのバーゼルのこと]に来てしまったのであるが、それは、いつも願っていた通り、どこか人に知られぬ片隅で静かに生活できるようにと思ってのことであった。・・・」

 このようなカルヴァンが、時勢の荒波に巻かれて、かねてからの希望通りの静かな隠遁生活とは全く反対な、行動的で戦闘的な生活に投げ込まれることになるのである。

1789年7月12日、パレロワイヤルで民衆を扇動するカミーユ・デムーラン

1789年7月12日、パレロワイヤルで民衆を扇動するカミーユ・デムーラン

フランソワ・ ボンヌヴィル「バブーフ」フランス国立図書館

トマ・クチュール「ジュール・ミシュレ」カルナヴァレ博物館

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