「夏目漱石と日露戦争」14 『それから』①「成金」
主人公長井大助は30歳。大学を卒業しても勤めに出ず、一軒家を借りて、書生の門野と賄いのばあさんの三人で暮らしている。明らかに今のフリーターとは異なる。仕事もしないでどうしてそんな暮らしが可能かというと、資産家の父や兄が生活費を出してくれるから。代助は一日中ぶらぶらしては、本を読んだりし知的に暮らすいわゆる「高等遊民」。漱石の小説では再三登場する。代助の父親は、再三早く定職に就くように催促するがのらりくらりかわす。父や兄について漱石はごく簡単にこう描いている。
「代助の父は長井得といって、御維新のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入って、何かかにかしているうちに、自然と金が貯(たま)って、この十四五年来は大分の財産家になった。
誠吾と云う兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今ではそこで重要な地位を占める様になった。」
ここは注意して読む必要がある。この「戦争」は戊辰戦争。父が薩長側か旧幕府側かどちらだったかは書かれていないが明白。薩長側だ。それは「役人」だったから。旧幕府側の人間が役人にはなれなかった。そして天下り。さらに「この十四五年」とは、作中世界が1909年だから1894年、1895年から1909年。この間にあった大きな出来事は日清戦争(1894年~1895年)と日露戦争(1904年~1905年)。「この十四五年来は大分の財産家になった」とあるのは、政府との癒着で、戦争に絡んで金儲けをした可能性が高い。それをうかがわせるのが「日糖事件の記述」。「砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収した」と書かれている。日本は日清戦争で獲得した台湾を統治するにあたり、製糖と樟脳を台湾における主要産業の一つと位置付け、製糖関係では1902年(明治35年)に『輸入原料砂糖戻税』を制定して保護した。この5年間有効の法律の延長を求めて、日本製糖取締役が複数の衆議院議員に対し金品を贈賄した明治時代に起きた疑獄事件が「日糖事件」である。
この事件の新聞記事を目にして代助はこんなことを考える。
「代助は自分の父と兄の関係している会社に就ては何事も知らなかった。けれども、いつどんな事が起るまいものでもないとは常から考えていた。そうして、父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕だけで、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとは肯(うけがわ)なかった。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与えた事がある。その時ただ貰った地面の御蔭で、今は非常な金満家になったものがある。けれどもこれはむしろ天の与えた偶然である。父と兄の如きは、この自己にのみ幸福なる偶然を、人為的にかつ政略的に、暖室(むろ)を造って、こしらえ上げたんだろうと代助は鑑定していた。」
「高等遊民」が誕生するのは日露戦争以後。戦後の好景気によって急速に富を築いた新興成金の存在が背景にある。代助の父もおそらくそういう存在だった。彼らの子息は、父の資産、遺産で生活する。しかし、「高等遊民」が社会に出てゆかないのは、経済的ゆとりのためだけではない。彼らは、社会的にあくどいこともしながら成り上がった肉親を身近で見てきたため、社会に対する批判の眼が強くなり、実社会に出ることを拒否する。だから、単なる怠け者ではなく、あえて職に就くことを拒否するのだ。だから父から「三十になって遊民として、のらくらしているのは、いかにも不体裁だな」と言われてもこう思う。
「代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。」
「日糖事件」 日本製糖汚職事件
鈴木久五郎
明治後期から大正期にかけての株式相場師。日露戦争景気で記録的な巨万の富を得た「元祖成金」だが、株の暴落によりわずか2年で全財産を失った。
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