「夏目漱石と日露戦争」13 『三四郎』②「髭の男」

 列車の中で、三四郎は「名古屋の女」以外にももうひとり衝撃を受ける人物と出会っている。「髭の男」だ。浜松の駅で窓から見た西洋人を「ああ美しい」「どうも西洋人は美しいですね」と言ったあと、三四郎とこんなやり取りが展開する。


「『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない』と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言った。」


 日露戦争に勝って日本の国際上の地位が高まり「一等国」になったという主張は、当時のマスメディアにおいて、国民の自尊心をくすぐる言説としてよく取り上げられた。「一等国」になるということは、明治憲法発布(1889年【明治22】)以前からの政府支配層の国家目標だった。しかし、日露戦争は勝利とは言え国力を使い果たしてのギリギリの「惨勝」。戦費の総額19億8千万余の78パーセントは国庫債券と一時借入金で賄わねばならなかった。指導者たちは厳しい内情を覆い隠し、結果として国民は「惨勝」とは思わず、世界史に冠たる大勝利の国民戦争であったという夢想に、自分たちを駆り立てていった。

 そして、戦争での勝利は新たに、そしていっそう人々を競争社会へ投げ込む。富国強兵がより強調され、国家の主導によって工業化が急速に図られ、企業熱と投機熱とで社会はむれ返っていく。

「ああ金の世や金の世や、たがいに血眼皿眼、食い合い奪い合いむしり合い、敗けりゃ乞食か泥棒か、のたれ死ぬか土左衛門、鉄道往生首くくり、死ぬより外に道はない、ああ金の世や金の世や」(演歌『ああ金の世』明治39年 添田唖蝉坊[そえだ あぜんぼう])

 しかし、金儲け主義による会社乱立のあげく、1907年(明治40)1月の株式の大暴落が決定的となる。戦争景気の波に乗って続出した中小企業がバタバタと倒れた。この恐慌によって財閥は支配権を強め、国家資本と結びつき産業独占の形をととのえた。そして、いっぽうに不況と失業にあえぐ民衆の群れ、もういっぽうにますます肥え太っていく資本家、という階級的構図を生んだ。これが多くの若者を煩悶させ、虚無に追い込み、堕落させ、あるいは無気力にならざるをえなくした。「髭の男」に、これからの日本について「滅びるね」と言わしめた背景にはこのように当時の日本の状況があったと思われる。


「熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

『熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……』でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

『日本より頭の中のほうが広いでしょう』と言った。『とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかりだ』

 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。」


 とらわれずに自分の頭で考えることがいかに困難だったかをその後の歴史は示している。

「列強クラブの新入り」(ビゴー画)日清戦争に勝利し列強の仲間入りをする日本を諷刺

新橋停車場前の凱旋門 満州軍総司令部のパレード

「凱旋図会」日露戦争の祝賀行事で登場した花電車

添田唖蝉坊(1920年)

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