「夏目漱石と日露戦争」15 『それから』②「一等国」と「神経衰弱」

 漱石の作品にたびたび登場する「高等遊民」。漱石は、もちろん彼らの弱点も描いているが、彼らの存在を通して、日本の近代化の在り方を照射している。代助がその妻三千代を奪うことになる平岡は銀行に勤めていたが、やがて三千代と結婚し、地方の銀行へ転勤。しかし、仕事上のトラブルに巻き込まれ、借金を重ねたあげく辞職に追い込まれ、東京に逃げ帰ってきた。平岡は、酒を飲みながら自分の気持ちを代助にぶつける。『何故働かない』と言う平岡に代助はこう答える。


「『何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。・・・のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。』」


 高等遊民代助のこの発言に、生活者平岡は当然反論する。


「『そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、そのうちに活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか』」


 「日清戦争、日露戦争に勝利して日本は一等国になったが、国民は神経衰弱に陥っている」という主張は、漱石の作品の随所で見られる。例えば『三四郎』では、上京する列車の中で「髭の男」広田先生が三四郎にこう言う。

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。」

 このことについてまとまった説明をしているのは、明治44年(1911年)、和歌山県会議事堂で行った講演『現代日本の開化』だろう。まず「現代日本の開化の特徴」、「一般の開化とどこが違うのか」を述べる。


「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かうのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。・・・鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺激に跳ね上がったくらい強烈な影響は有史以来まだうけていなかった・・・日本の開化はあの時から急激に曲折しはじめた・・・急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにそのいうとおりにしなければ立ち行かないという有様になった・・・それが一時ではない。・・・時時に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年のあいだか、またはおそらく永久に今日のごとく押されてゆかなければ日本が日本としてそんざいできないのだから外発的というよりほかに仕方がない・・・この圧迫によって吾人は已むを得ず不自然な発展を余儀なくされる・・・」

「憲法発布上野賑(うえののにぎわい)」(勝月)  

  明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法発布

憲法発布を祝う人びと

 早くも明治22年(1889)に、日本は近代国家の枠組みである憲法を制定。当時の世界から注目されたが、「日本がこの新しい憲法を本当に運用できるのか?」と疑問視されていた。

「黒船の図」  日本の近代は1853年のペリーの黒船来航に始まる

「五箇条の御誓文」の朗読

  明治新政府の施政方針「五箇条の御誓文」が出されたのは明治元年(1868)

岩倉使節団

 明治4年(1871)新政府の中心人物の半分が1年以上の欧米視察に出発。無謀とも思える行動に出たのは、それだけ早く近代化を急ぐ必要性を感じていたから。


「憲法発布式之図」(床次政精)  明治22年(1889)2月11日

  この5年後に日清戦争、15年後に日露戦争を戦い日本は勝利する

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