「夏目漱石と日露戦争」10 『虞美人草』②「失敗作」

 漱石の朝日新聞入社は、それまで受動的に動いてきた彼の人生において、唯一の能動的な選択だった。松山中学への赴任は、積極的であるというより逃避的なものであったし、英国留学も自発的なものではなかった。『吾輩は猫である』を書いたのも、けっして作家になろうとしてではなく、彼自身の欲求に促されて自然発生的に書いたものだった。その漱石が大学を辞め、職業的作家になろうとして朝日新聞社に入社。「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。」(明治39年鈴木三重吉宛書簡)とその意気込みの大きさを語っているほどだ。

 しかし、最初の作品『虞美人草』は失敗作という評価が多い。その理由を正宗白鳥はこう語っている。

「『虞美人草』では、才に任せて、詰まらないことを喋舌り散らしてゐるやうに思われる。それに、近代化した馬琴と云ったやうな物知り振りと、どのページにも頑張ってゐる理屈に、私はうんざりした。馬琴の龍の講釈でも虎の講釈でも、当時の読者を感心させたのであらうし、漱石が今日の知識階級の小説愛好者に喜ばれるのも、一半はさういふ理屈が挿入されてゐるためなのであらう。」

 例えば、京都旅行中の「甲野」と「宗近」の天竜寺での会話。この小説の中で唯一日露戦争が話題になる場面。


「君は日本の運命を考えたことがあるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後ろへ開いた。

「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」

「たまたま風邪が癒(なお)れば長命だと思ってる」

「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。

「日本と露西亜(ロシア)の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」

「無論さ」

「亜米利加(アメリカ)を見ろ、印度(インド)を見ろ、阿弗利加(アフリカ)を見ろ」


 対象描写は、会話以上に華麗だが粉飾が施された美文調で、辟易してしまう。例えば、ヒロイン「藤尾」がはじめて登場する場面。


「紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝を冴々(さえざえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし。簪【かんざし】で、髪にさす二本のふたまたの部分が金でできているもの)にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸(ひとみ)のさと動けば、見る人は、あなやと我に返る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸(ぬす)んで、疾風の威を作(な)すは、春に居て春を制する深き眼(まなこ)である。この瞳を遡って、魔力の境(きょう)を窮(きわ)むるとき、桃源(理想郷)に骨を白うして、再び塵寰(じんかん。汚れたこの世の中のこと)に帰るを得ず。」


 さらに、正宗白鳥が言うようにこの小説は滝沢馬琴(『南総里見八犬伝』等)の如き勧善懲悪(坪内逍遥は「近代小説」の確立のためにこれを否定)の構図を持ち、ヒロイン藤尾も強引な形で死なせてしまう。漱石自身手紙で「あれ(藤尾)は嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。特技心が欠乏した女である」(明治40年小宮豊隆宛書簡)と言っている(もちろんそれが漱石の本心かどうかは疑問もあるが)。

 しかし『虞美人草』は、いざ連載が始まってみるとなかなかの人気ぶりを見せる。新聞の売子は「漱石の虞人草!」と言って新聞を売り歩き、巷では小説の人気に乗じた商品まで売り出された。例えば、日本橋の三越呉服店は「虞美人草浴衣」。連載開始から10日余りにして、すでに商品が店頭に並び、しかも品薄状態になる。また上野池之端にあった老舗、玉宝堂(ぎょくほうどう)からは「虞美人草指輪」が売り出されるなど、『虞美人草』ブームが起こったのだった。

漱石が入社した頃の東京朝日新聞社内 1906年(明治39)ごろ

『虞美人草』連載第1回

三越のポスターに使われた橋口五葉の絵 1911年(明治44)

虞美人草帯揚

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