「夏目漱石と日露戦争」11 『虞美人草』③「東京勧業博覧会」

 自我のかたまりのようなヒロイン藤尾は、当時の家制度が求めていた女性像とは程遠い人物。父が決めていた、義理の従兄に当たる法学士・宗近一との結婚に異を唱え、自らの遺志で詩人の小野を結婚相手として選ぼうとする。

「藤尾は男を弄(もてあそ)ぶ。一毫(ごう)も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。・・・我の強い藤尾は恋をする為に我のない小野さんを択んだ。蜘蛛の囲(い)にかかる油蝉はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近君は捕るは容易である。宗近君を馴らすは藤尾と雖(いえども)、困難である。我の女は顋(あご)で相図をすれば、すぐに来るものを喜ぶ。小野さんはすぐに来るのみならず、来る時は必ず詩歌の璧(たま。輪の形をした平たい玉器)を懐(ふところ)に抱いて来る。夢にだもわれを弄ぶの意思なくして、満腔の誠を捧げてわが玩具となるを栄誉と思う。彼を愛する資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉に、わが唇に、さてはわが才に認めて只管(ひたすら)に渇仰(かつごう)する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。」

しかし小野には昔からの許嫁である小夜子(孤児だった小野を育て、大学まで出した井上孤堂先生の一人娘)がいた。この親子が京都から上京。物語が大きく動き出すのは、小野が小夜子と一緒にいるところを藤尾が目撃する場面。場所は上野公園の東京勧業博覧会会場。藤尾は小夜子が美人であることに強烈に嫉妬。24歳という年齢(母親から「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多にあるものかね。」と言われる)が焦り、負い目を生み、小夜子への嫉妬に拍車をかける。藤尾は小野と大森へ行く約束をする。当時大森は逢引きの名所であり、大森行きは「藤尾みずから進んで小野さんに「純潔」を捧げる決意を固めての、乾坤一擲の大博奕だった」(塩崎文雄「女が男を誘うとき 『虞美人草』の地政学」『漱石研究』)のだろう。

 しかし、宗近に説得された小野は、藤尾との待ち合わせ場所の新橋へは行かない。小野に大森行きをすっぽかされた藤尾は怒りに震えて帰宅、そして待ち受けていた宗近や小野の話に激昂する。

「呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなた。中心を失った石造の様に椅子を蹴返して、床の上に倒れた。・・・我の女は虚栄の毒を仰いで斃(たお)れた。」

 ところで、この小説で重要な役割を果たす「東京勧業博覧会」は、1907年(明治40)3月20日から7月31日まで上野恩賜公園で開催された。来場者は約680万人。もともとは政府主催の内国勧業博覧会(第6回)が1907年に予定されていたが、日露戦争後の財政悪化により延期されたため、東京府が主催して博覧会を開催することになった。上野公園を第1会場として、不忍池畔を第2会場に、帝室博物館の西を第3会場とした。第1会場に第1号館から第5号館と、美術館、人類館、園芸館などを建て、第2会場の不忍池畔に台湾館、朝鮮館、外国館、機械館、三菱館、ガス館など企業館と各府県の売店が並び、池畔にはウォーターシュートや水族館、世界館などが設けられ人気を呼んだ。このとき不忍池畔に初めて渡月橋が架設され、夜間はイルミネーションの灯が池に映り、文明の象徴とされた。東京勧業博覧会におけるイルミネーションの数は、前回の第5回内国勧業博覧会の6700燈に比べて3万5084燈と、文字通り一桁違っていた。

「文明を刺激の底に篩(ふる)い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。苟(いや)しくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんが為めにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚くとき、始めて生きているなと気が付く。」

 この東京勧業博覧会には日露戦争後の経済勃興と関西への対抗意識(第4回内国博覧会【1895年】、第5回内国博覧会【1903年】は大成功だった)と言った大きな意図が込められていた。一等国と帝都の威信がかけられていたのだ。

「東京勧業博覧会第二会場 イルミネーション之光景」 

  『虞美人草』に登場する東京勧業博覧会の夜景

「東京勧業博覧会二大余興」   「船すべり」(ウォーターシュート)と「回転観覧車」

「東京勧業博覧会各館之光景」

東京勧業博覧会 不忍池観月橋

藤島武二「不忍池」

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