「夏目漱石と日露戦争」9 『虞美人草』①朝日新聞入社
明治40(1907)年、新進作家として世間の注目を集めていた漱石に、朝日新聞社から専属作家として入社を招聘する話が舞い込み、漱石は40歳にして新しい世界に踏み込んでいった。5月3日、『東京朝日新聞』に漱石の「入社の辞」が掲載された。その冒頭はこうだ。
「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢う人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程(さほど)に不思議な現象とは思わなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固(もと)より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤(もっとも)である。かく申す本人すら其の点に就(つい)ては驚いて居る。然(しか)しながら大学の様な栄誉ある位置を抛(なげう)って、新聞屋になったから驚くと云うならば、やめて貰(もら)いたい。・・・」
当時、今日と違って大学教授は大変な権威がある一方、作家や新聞記者は尊敬すべき身分ではなかった。だから、「漱石が大学をやめて新聞に這入ったといふことは、当時の一大センセーションであった」(小宮豊隆)。では、漱石に目をつけた朝日新聞の側にはどのような思惑が存在していたか?
日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が創刊されたのは1870年(明治3)。その後、『東京日日新聞』『郵便報知新聞』(1872)、『朝野新聞』(1874)など、名物ジャーナリストが論陣を張った政論新聞が続々誕生。これらの新聞は、政治や経済に主眼を置き、官吏や政界人、教師など知識階級と呼ばれた人々に読まれた。それに対して、政治記事よりも市井の出来事や読み物を好む庶民に向けてつくられた新聞(政論新聞より小型だったため「小(こ)新聞」と呼ばれ、それに対して政論新聞は「大(おお)新聞」よ呼ばれるようになる)が1874年(明治7)ごろから出回るようになる。朝日新聞社はそうした「小新聞」の一つとして、1879年(明治12)大阪で『大阪朝日新聞』を創刊。その後、1888年(明治21)に東京に進出し『東京朝日新聞』を創刊する。
1905年、日本の新聞全体の発行部数を急激に増やした日露戦争が終結すると、部数は減少に転ずる。朝日新聞社は、この状況を打開するために紙面の改革に乗り出す。第一に指示されたのが、社会面と小説欄の改革。背景には、明治30年代後半、教育の普及により、読者の知的水準が急速に高まったという事情があった。朝日新聞社は、このような人々を満足させる新聞を目指し、社会面では軟派記事を廃し、小説欄では新しい文芸作品を提供することが必要と考えて、40歳の東京帝国大学講師、夏目金之助に目をつけたのだった。
朝日新聞へ入社した漱石の最初の作品は『虞美人草』。その頃の漱石の様子を妻の鏡子が、『漱石の思い出』で次のように語っている。
「なにしろ始めての長篇ではあり、重い責任をもって新聞に入って書く最初のものであり、ことに暑さに向かっての労作のことでしたから、ずいぶん骨も折れたようでした。これを書いてる間、始終少し興奮していまして、そうして例の胃弱で相当弱っておりました。がとにかく一生懸命で、ほかのことはいっさい手につかないといったぐあいにこの作に打込んでこっておったようですが、さてこれほどの苦労をしてでき上がってみると、どうも練れていない、垢ぬけがしていない、そうして匠気(「しょうき」芸術家・職人などが、技術・技巧に趣向をこらす気持ちのこと)があるなどとか申して、自分では不満がっておりました。この気持ちは後々になるにつれていっそう募ってきた様子で、この作を英語に翻訳したいからとアメリカあたりにいる方が言って来られた時も、ほかにもっと適当のものがあるだろうからと即座にお断わりしたり、芝居にしたいと方々から言ってくるのを無下に却けたり、人がほめるものがあれば擽ったいようないやな顔をするというふうでありました。けれども当時はなかなか評判の高いものでして、夏の始めごろには「三越」で「虞美人草」の浴衣を染めて売り出しまして、私のところへも二反ばかりくれますし、池ノ端の玉宝堂あたりでは、虞美人草の花模様の中に小さい養殖真珠をはめたのを、名まえほどのことはなく貧弱のものではありましたが、「虞美人草」の指環だといって売り出しますし、読者からは手紙がきますといったわけでした。」
名取春仙『虞美人草』朝日新聞挿絵
明治40年(1907)5月、朝日新聞入社時の漱石
岡本一平『漱石八態』朝日新聞社初期時代の漱石
0コメント