「日本の夏」25 「涼を取る」⑧ 「麦湯」「甘酒」

 夏にピッタリの飲み物と言えば冷えた麦茶。麦茶の歴史は意外と古く、平安貴族たちも麦茶を飲んでいた。長らく貴族や武家など特権階級の飲み物で、庶民にも広く飲まれるようになったのは江戸時代後期のこと。江戸の市中に麦茶を提供する「麦湯店」が夏の夜の風物詩として出現する。もちろん冷蔵庫などない時代のこと、今と違ってホット麦茶。

 麦湯の店がいかに人気があり、江戸の夏の風物詩にまでなっていたかは、天保に書かれた『寛天見聞記』にこんな記述がある。

「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」

また、江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗往来』にも同様の記述がある。

「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下がらず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間にでける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。」

 しかし、これだけでは人気の秘密はわからない。この店の特徴は、14~15歳の少女が一人で麦湯のみ(食事もなにもなく)を4文ほどで売るものであった点にあったが、一体その少女たちのサービスのどこに人々をそこまで惹きつけた魅力があったのだろう。と思って『江戸府内風俗往来』を読み進むとこんな記述があった。

「紅粉を粧(よそお)うたる少女湯を汲みて給仕す。浴衣の模様涼しく帯しどけなげに結び紅染の手襷程よく、世辞の調子愛嬌ありて人に媚びけるも猥(みだ)りに渡ることなきは名物なり。」

 ウーン、すごい!こんな色気と清純さをギリギリのところでバランスをとってサービスされたら、そりゃ世の男たちはこぞって出かけたに違いない。しかし、本当にこんな少女たちが江戸のあちこちに出没していたのだろうか。少なくとも、浮世絵からはそこまでの魅力は伝わってこないのだが。

 麦湯とともに江戸の夏のホットドリンクと言えば甘酒。甘酒と言うと「冬の飲み物」という印象が強いが、「甘酒」の季語は夏。江戸時代、上方では甘酒といえば夏だけの飲み物で、甘酒を売り歩く甘酒売りは夏の夜にだけ現れる風物詩だった。それに対して江戸では甘酒はもともと冬の飲み物だったが、江戸時代後期になると夏にも甘酒売りが登場するようになり、甘酒は1年を通して飲まれるようになった。

 これにはちゃんと合理的な理由があった。甘酒には、暑さにバテて衰えた体力を復活させるためのブドウ糖・ビタミン類・アミノ酸類が多く含まれ、「栄養ドリンク」として、現代の点滴のような役割を担っていたのだ。平均寿命が50歳にも満たなかった当時の人々にとって、逃れようのない厳しい暑さは大敵。食中毒や蚊を媒介とする伝染病などによって夏の死亡率は高く、「夏を越える」ことは大変だったのだ(「夏越【なごし】の祓【はらえ】」は夏の終わり旧暦6月30日に執り行われた神事で、穢れを祓い清め、無病息災を祈願しながら大きな茅の輪(ちのわ)をくぐる)。幕府もその効能を十分承知していて低所得者層の健康管理のため、甘酒一杯の販売価格に上限を設定していたほどだ。

        「愚痴無智のあまざけ造る松が岡」(蕪村)

松が岡は駆け込み寺として有名な東慶寺のあるところ。東慶寺は尼寺なので、甘酒の「あま」と掛けている。「ぐちむち」も甘酒を作るときの音のようだが、これも仏教用語の「愚痴」と「無智」に掛けている。米と米麹で作る甘酒にアルコール分は含まれないので尼僧が飲んでも問題はない。子どもも大好きだった。

        「一夜酒隣の子迄来たりけり(一茶)

甘酒は一晩でできるので、別名を「一夜酒(ひとよざけ)」と言った。では、次の川柳の意味は?

        「不二山に肩を並べる甘酒屋」

 不二山(富士山)も 孝霊年間に一夜で隆起したと言い伝えられていたからだ。

甘酒売り

広重『狂歌四季人物』「麦湯売り」

国貞「夜商内六夏撰 麦湯売り」

渓斎英泉「十二ヶ月の内 六月門涼」

0コメント

  • 1000 / 1000