「日本の夏」24 「涼を取る」⑦ 裸体の露出(2)
混浴・行水と並んで、幕末に来日した外国人を驚かしたのは、日本人の裸体の習慣だった。労働する男たちがふんどしひとつなのはまだしも、女たちが人前で肌を露出して羞じないのはまさにショッキングな風俗だったようだ。明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとったアメリカ合衆国出身のお雇い外国人ウィリアム・エリオット・グリフィスは書いている。
「(暑い季節には)女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸味のついたばかりの若い女でさえ、上半身裸でよく座っている。不作法とも何とも思っていないようだ。たしかに娘から見ると何の罪もない事だ。日本の娘は『堕落する前のイヴ』なのか」(グリフィス『明治日本体験記』(平凡社東洋文庫))
『旧約聖書』「創世記」によれば「人と妻(注:アダムとエバ)は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2章25節)が、エバ(イヴ)が蛇に誘惑されてエデンの園の中央に生えている木の果実を取って食べ、アダムにも渡し、彼も食べてしまう。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰をおおうものとした」(3章7節)。キリスト教徒には、暑いとすぐに上半身をさらけ出す日本女性は、原罪に陥る前のエデンの園のエバに映ったようだ。
1860(万延元)年に日本を訪れたプロイセン艦隊の輸送艦エルベ号の艦長ラインホルト・ヴェルナーは『エルベ号艦長幕末記』にこう書いている。羞恥とは気候によって左右される概念であり、暑い日本の夏に、人々が裸体になるのは無理もないのではないか。それにもかかわらず「ニグロ、インディアン、マレー人については」その裸体姿をべつに不思議がりはしない西欧人が、日本人の裸体姿からなぜショックを受けるのか。それは、日本人が「精神と肉体の両面でわれわれに近く・・・交際する形式からしてもいかにもヨーロッパ風であり、一般に洗練され、折り目正しい態度」をとるからだ、と。
この点について明治期の日本に招聘されたアメリカ人教育者アリス・ベーコンは、『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)のなかで当時の日本の女性事情を偏見無く次のように分析している。
「日本人の尺度によると、たんに健康や清潔のためとか、せねばならぬ仕事をするのに便利だからというので、たまたまからだを露出するするのは、まったく礼儀にそむかないし、許されもすることなのだ。だが、どんなにちょっぴりであろうと、見せつけるためだけからだを露出するのは、まったくもって不謹慎なのである。前者の例としては、開放された浴室や裸の労働者、じめじめした季節に着物をまくり上げて下肢をむき出しにすること、夏に田舎の子どもがまったく裸でいること、暑い季節には大人さえも、家のまわりや田園でちょっぴりしか衣服を身につけないのが必要とされていることが挙げられる。後者の例としては、西洋の衣装がからだは完全に覆っているものの、腰から上の体型のあらゆる細部をあらわにしており、きれいな体型を見せつけようとしていることに、多くの日本女性が感じていることを申し上げておきたい。・・・われわれが日本人という人種には品位のセンスが欠けているとか、日本の女性は女らしい羞恥の本能をまったく欠いているとか結論づけるならば、それは実に性急な判断というものだ」
江戸時代の日本人は、キリスト教文化と決定的に異なって、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。当時の文化は、女性の体の魅力を抑圧することはせず、むしろそれを解放した。混浴、行水、人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴(しるし)ではなく、当時の社会がいかに開放的であったかということの徴として読む必要がある。
ところで人前で平気で授乳する風習を反映して、浮世絵には授乳場面がよく登場する。歌麿も何枚も描いている(「当世風俗通 女房風」、「名所風景美人十二相 授乳」、「布呂蚊帳」など)。西欧では、聖母子像や神話画にしか見られないのと対照的だ。確かに歌麿描く女性は美しいが、そこから感じるのは、子どもに注がれる母親の限りない愛情とそれを一身に浴びて、楽しげで、生き生きとした子どもたちの表情の明るさである。
ヤン・ブリューゲル、ルーベンス「エデンの園」マウリッツハイス美術館
レオナルド・ダ・ヴィンチ?「リッタの聖母」エルミタージュ美術館
エル・グレコ「聖家族と聖アンナ」ブダペスト国立西洋美術館
歌麿「当世風俗通 女房風」 子どもの流し目がちょっとあやしい
歌麿「乳を飲ませる母」
歌麿「名所風景美人十二相 授乳」
歌麿「布呂蚊帳」
国芳「山海愛度図会 はやくねかしたい」
国貞「時夜百花鳥 風車にみみずく」 なんともアクロバチックな授乳
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