「日本の夏」23 「涼を取る」⑥ 裸体の露出(1)

 幕末来日した西洋人を仰天させ、日本人の道徳的資質さえ疑わせるに至った習俗の一つが「混浴」の習慣。ペリー艦隊に主席通訳として同行したサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズは、1854(安政5)年の下田での見聞をもとに次のように断定を下した。

「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに大腿まで覗かせる。・・・裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体なぞはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。」(ウィリアムズ『ペリー日本遠征随行記』雄松堂出版)

 イギリス聖公会の香港主教ジョージ・スミスは聖職者なだけに、その批判はさらに厳しい。

「 老いも若きも男も女も、慎みとか、道徳的に許されぬことだというはっきりした分別をそなえている様子をまるで示さず、恥もなくいっしょにまじりあって入浴している。・・・ 日本人は世界で最もみだらな人種のひとつだ・・・」(Smith,George Ten Weeks in Japan)

 もちろんこのようなピューリタニズムの眼鏡がかかった批評ばかりではない。ルドルフ・リンダウ(スイス通称調査団の団長として1859【安政6】年初来日、1864年にはスイスの駐日領事をつとめたプロシア人)は、文化相対主義の立場に立って正面きって日本人を弁護した。

「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子どもは恥を知らない。だからといって恥知らずではない。羞恥心とは、ルソーが正当に言っている様に『社会制度』なのである。・・・各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分たちの礼儀に適っている、あるいはそうではないと思われることで、規準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何ひとつ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではなかろう。このうえなく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水しているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだ思ったことがないのである」(リンダウ『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社)

 「行水」も「混浴」と並んで来日外国人に悪名高い光景だった。幕末に来日,横浜で「ジャパン・ヘラルド」をはじめ新聞事業を次々に手がけたイギリス人記者ブラックは行水にとって暑い夏の日の「行水」は街頭でよく目にする光景だった。

「本書を書いている現在(1880年)から5年とさかのぼらない頃でも、こんな光景(注:行水)を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、また周りの村でも何度も見た。四方八方へ遠出をする人にとって、いわゆる『見さかいのない行水』はごくふつうにみられたので、じきになんとも思わなくなった」(ブラック『ヤング・ジャパン』平凡社東洋文庫)

 当時の日本人女性の肉体の露出は、なんら性的誇示の意味を含まず、従って猥褻なものではありえなかった。大森貝塚の発見者として知られ東京大学のお雇い教授を2年務めたエドワード・S・モースは、1880年頃の日本を描いた著作『日本その日その日』(原題:Japan Day by Day)の中でこう書いている。

「我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が不作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、われわれ外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬのと同じく、恥ずかしく思わず、そして我々にとっては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうではない、との結論に達する。たった一つ不作法なのは、外国人が彼らの裸体を見ようとする行為で、彼らはこれを憤り、そして面をそむける」(モース『日本その日その日』平凡社東洋文庫)

 モースは「若い娘が白昼公然と肉に喰いこむような海水着を着、両脚や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとった男達と砂の上をブラリブラリしている」母国の風俗を「我々が見る日本人よりも無限に不作法で慎みがないのである」と主張している。

ペリー艦隊の公式日記『日本遠征記』の挿絵  下田にあった公衆浴場

行水(レガメ画、ギメ『かながわ』)

歌麿「猫と戯れる湯上り美女」

磯田湖龍齋「行水の後」  「行水の捨て処なき虫の声」(鬼貫)

国貞「江戸名所 百人美女 今川はし」

国貞「集女八景 洞庭秋月」 湯上り化粧の図

 合わせ鏡で化粧中の女性。もろ肌脱ぎの右上腕には恋人の名前の刺青。金盥が「洞庭湖」、丸鏡が「月」のみたて。


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