「日本の夏」19 「涼を取る」② 「滝浴み」(1)王子の滝

 「滝浴(あ)み」。滝に打たれることだけでなく、眺めて楽しんだり、その滝の水で遊んだりして涼を求めることをいう。江戸っ子も、時には少し足を延ばして「滝浴み」に出かけた。江戸っ子に人気だったのは王子周辺。このあたりには、滝の名所が数多くあった。石神井川をこのあたりでは「滝野川」と呼んだのもそれに由来(別説:流れも急なことから、滝のように流れる川だったことに由来)。「王子七滝」と呼ばれる「弁天の滝」「権現の滝」「稲荷の滝」「大工の滝」「見晴らしの滝」「名主の滝」があったが、高低差が大きく、水量も豊かだったことから七滝の中で最も人気が高かったのは「不動の滝」。

「泉流の滝ともいふ。正受院の本堂の後ろ坂路を巡り下ること数十歩にして飛泉あり。滔々(とうとう)として峭壁(しょうへき)に趨(はし) る。この境はつねに蒼樹(そうじゅ)蓊鬱(おううつ)として白日をささへ、青苔(せいたい)露なめらかにして、人跡稀なり。」(『江戸名所図会』「不動滝」)

 正受院(現・滝野川2丁目)の裏手、石神井川沿いの溪谷の窪みにあり、鬱蒼と茂った樹木に囲まれているため、夏でも涼しさが感じられたようだ。その名称の由来はこうだ。室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶が、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置した。この滝が不動の滝と呼ばれる由縁である。

 この滝に打たれると諸病が治ると評判になり、夏には大勢の男女が集まって大変な賑わいをみせていたそうだ。しかし、昭和33年(1958)の狩野川台風をきっかけに行なわれた石神井川の直線化と護岸工事によって、すっかり姿を消しまった。

 江戸時代の雰囲気を知るには、時代劇『御宿かわせみ』「王子の滝」を観るのも参考になる。こんなストーリー。東吾がかわせみに人妻のおすず(両替商大和屋の女将)を連れてやってくる。おすずの亭主は養子で元武家。東吾にかつて、おすずの養子にという話があったが兄が一蹴したと経緯がある。おすずは、夫と別れたいと東吾に打ち明け、殺されるかもとも漏らす。おすずは店を取り仕切っていて、夫の兄に多額の金を貸し付けていたが、その証文がない。おすずは王子の滝近くの弁天社で殺される。東吾は兄弟の陰謀とよみアリバイ崩しをやってのける。

 ところで、この不動の滝を華厳の滝並みの迫力ある姿で描いたのが広重の「名所江戸百景 王子不動之滝」。滝近くの褌(ふんどし)姿の男が滝浴みをしている。手前には滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている。心地よい滝の音や飛沫(しぶき)を感じながら、一時の清涼感につつまれての滝浴みである。滝野川付近は、石神井川の両岸が深い渓谷となっているため、夏は避暑、秋は紅葉の名所として賑わった。広重「東都名所 王子瀧の川」を見るとその様子がよくわかる。画面右側には滝野川弁天(岩屋弁天)の洞窟がある。また川で泳ぐ人、水遊びを楽しむ子ども、床几の上では酒を酌み交わす人など、思い思いに夏の一日を過ごす情景が描かれている。

 王子界隈を訪れる人々の目的は、滝だけではない。一年を通じていろいろな楽しみがあった。飛鳥山の花見(ぜいたくにも、富士山と筑波山の両方眺めることができた!)、音無川(=石神井川)流域の紅葉、さらには月見や雪見までも楽しむことができた。王子の地名の由来となった「王子権現(現王子神社)」や、関東稲荷総社の格式をもつ「王子稲荷」など有名な寺社も多かった。また音無川の流域には、行楽客目当ての茶屋や料理屋(「扇屋」、「海老屋」など)も数多くあり、八代将軍吉宗が飛鳥山を整備した頃には、一大観光地になっていた。

 「王子七滝」のうち現存する唯一の滝は「名主の滝」。「名主の滝」は、都内でも有数の8メートルの落差を有する男滝(おだき)を中心とする女滝(めだき)・独鈷の滝(どっこのたき)・湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝からなる。

広重「名所江戸百景 王子不動之滝」

一景「東京名所四十八景 王子不動の滝」

『江戸名所図会』「不動滝」

広重「東都名所 王子滝の川」

二代広重「江戸名所四十八景 王子滝野川」

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