「日本の夏」18 「涼を取る」① 大川端

 江戸時代、最高気温30℃以上の真夏日は年間数日しかなく今ほど暑くはなかった。世界的に寒冷期だったこともあり、今より2〜3℃は涼しかったようだ。さらに街の造りが江戸は今の東京とは大きく違っていた。江戸の街は川、堀、池など、今より水辺が圧倒的に多かったため、海からの風がそこを通って涼しさをもたらした。建物も今と違って木造。木は雨が降ればその湿気を含むし、構造的に熱気が屋根裏へと逃げていく。床下にも空気が通るし、軒があるから直射日光が部屋に差し込むこともない。昔ながらの和風建築は暑い夏を快適に過ごせるような造りだった。

 とは言え、その蒸し暑さは江戸時代も変わらない。エアコンで室温を下げる方法などなかった江戸時代、人々は様々な方法で蒸し暑い日本の夏を乗り切った。多くは近くの川や池などの水辺での夕涼み。隅田川(大川)の近くに住んでいた江戸の庶民の多くは、夕方になると涼を求めて隅田川へ出かけた。特に賑やかだったのは両国橋の橋詰。5月28日から8月28日までが「川開き」で、その間は橋詰や堤で夜店を営むことが認められた。夜間、納涼船で隅田川に出ることも許された。特に初日は、享保10年(1725)から両国橋近辺で大々的に花火が打ち上げられるようになり、隅田川も屋形船や屋根船でごった返した。その様子を『守貞漫稿』は次のように記している。

「今夜初めて、両国橋の南辺において花火を上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群集す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈(あんどん)に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる」

 ところで当時の「屋根船」は、今の屋形船のことで切妻の屋根がついた小型の船。窮屈だったようでこんな川柳が残っている。

   「屋根舟のへさきへ立てのびをする」

 それでも、川開きで屋根船に乗ろうとすれば1年前から予約しなければいけなかったようだ。

   「船頭の足音を聞くいい涼み」

 これは「屋形船」を詠んだ川柳。「屋形船」とは、唐破風などの屋根を持つ、家一軒分ほどの大きな船だが、船頭は屋根の上に乗って、そこから棹を差して船を操っていた。だから「屋形船」の客は、頭上から船頭の足音が聞こえてきたのだ。

 納涼船の船賃は安くない。屋根船でも、船頭一人乗りで一人300文(裏長屋の店賃=家賃の相場)、二人乗りで400文程度だった。庶民は、花火見物も見物料ただの橋の上。特等席はもちろん両国橋。押すな押すなの大混雑になった。

 夕涼みと言えば大川端(おおかわばた)。隅田川の下流、特に吾妻橋から新大橋付近までの右岸一帯のこと。鳥居清長はその大川端での夕涼みを見事に表現したが(「大川端の夕涼」)、バラエティに富んだ女性のしぐさ、巧みな遠近のコントラス、スケールの大きな構図が見事としか言えないのが歌麿の「大川端夕涼」。特に、女性の手の動きの多様さに驚かされる。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言った瞬間の弟子たちの反応を描いているが、レオナルドは手の動きで複雑で多様な心の内を語らせた。そのことをゲーテは、「レオナルドが彼の絵に主として生気を与えるために用いた一つの偉大な工夫」と評したが、女性を知り尽くしたかのような歌麿の手のしぐさも素晴らしい。

 ところで、「大川端夕涼」には団扇を手にした女性が二人いるが、それぞれの団扇は異なっている。「江戸団扇」と「京団扇」だ。浮世絵に描かれる団扇の大半は、骨から柄まですべてひとつの竹を細工して作る「江戸団扇」だが、竹ひごを並べた骨に地紙を貼り、別に誂えた柄を挿しこんで作る高級な「下りもの」(上方から江戸へ運ばれる品)の「京団扇」も登場頻度は多くはないが吉原の遊女などが手にするのを目にする。

歌麿「大川端夕涼」

鳥居清長「大川端の夕涼」

国貞「東都両国橋 川開繁栄図」

国貞「東都両国橋 川開繁栄図」2

広重「江戸名所 両国納涼」

鈴木春信「風俗四季歌仙 水無月」

      「吹く風の川を涼しくよる浪の 立かへるやと心ちこそせね」

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