「日本の夏」16 「蓮」③ 「不忍池」(2) 落語「唖の釣り」
江戸時代から現在に至るまで、上野と言えば桜の名所。その始まりは、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内に、徳川家光が吉野を模して桜を植樹させたこと。その賑わいは、戸田茂睡「紫の一本」(むらさきのひともと)にこう記されている。
「幕の多きは300余あり。少なき時は200余あり。このほかにつれだちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当かかげたる細引きにとほして桜の木にゆひつけて、かりの幕にしてて、毛氈・花むしろしきて酒のむなり。鳴物はならず。小唄・浄瑠璃・踊り・仕舞はとがむることなし 」
花見用にあつらえた金糸や銀糸を使った華やかな小袖を「花見小袖」と言ったが、それを幔幕代わり(「小袖幕」)にすることもあったことがわかる。では、次の川柳は何を意味しているか?
「千金の時分追い出す花の山」
山とは上野山内のこと。ここの開門は明六つから暮六つまで。つまり江戸時代の上野は、夜桜見物が禁止されていたのだ。「山同心」(「寺侍」江戸時代、門跡寺院など格式の高い寺に仕え、警護・寺務などにあたった武士)がチェックしていたのでこっそり夜桜を楽しむなんてことも難しかったようだ。
この山同心、実は不忍池も見回っていた。なぜか?許六(江戸前・中期の俳人。彦根藩士。蕉門十哲の一人。六芸に通じているとして許六と称した)がこんな俳句を残している。
「鯉鮒のこの世の池や蓮の花」
天海僧正は不忍池を供養のために魚鳥や亀などを放つ「放生池」(ほうじょうち)と定め、魚鳥をとることを禁止した。鯉鮒にとってはこの世の極楽浄土、繁殖し放題。そこに目をつけ、こっそり釣りをする輩が出没。山同心はこうした不埒な輩を取り締まったのだ。落語「唖の釣り」の舞台はそんな殺生禁断の地「上野の池」=不忍池。こんな話だ。
七兵衛は、毎晩こっそりと上野の池へ鯉釣りに出掛け、それを魚屋に卸して生計を立てていた。ある時、ばかの与太郎に、「釣りをする奴はばか」と言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断の不忍池で鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。それを聞いた与太郎「おらぁも連れて行ってくれ。ダメだったら、この話みんなに言ってしまうからな。」と脅して頼んだ。これには 七兵衛もしかたがなく、その晩、与太郎を連れて釣りに出掛けた。出かけるにあたって七兵衛は与太郎に知恵をつける。
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかりいきなり「また釣っとるかァ」と殴られた。「また」というのだから与太郎がしくじったのだと思った七兵衛、とたんに舌がもつれて声が出なくなってしまう。役人が唖と思い込んだのを幸い、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて親孝行の説明を大熱演。
「なんと、今晩は親孝行が流行るわい。なかなか器用な唖だな。大目に見てやるぞ」。
それを聞いた七兵衛さん、「あ、ありがとうございます」。役人はビックリして 「あ、本当に器用な唖だ。口を利いた」。
今も弁天島には食にまつわるものの供養の塚が、たくさん建立されている。「魚塚」、「ふぐ供養碑」、「鳥塚」、「包丁塚」。「スッポン感謝之塔」なんてのもある。
英泉「江戸不忍弁財天之春景」
広重「江戸名所 上野不忍池弁天ノ社」
「魚塚」 弁天島
「ふぐ供養碑」 弁天島
「スッポン感謝之塔」 弁天島
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