「日本の夏」15 「蓮」② 「不忍池」(1)東都第一の蓮池
徳川幕府が開かれ、江戸が日本の中心に据えられるようになると、その場所を鎮護する必要が生じる。そこで選ばれたのが、江戸城の鬼門(艮【うしとら】丑と寅の間=北東)への寺院の造営。慈眼(じげん)大師こと天海僧正(1536-1643 家康・秀忠・家光が帰依した天台宗の僧侶)の誓願によって、寛永2年(1625)に寛永寺の本坊が創建される。寛永寺の山号は東叡山。東にある比叡山と云うことを意味する。比叡山延暦寺は、天台宗の総本山であり、天海は比叡山を江戸の地に移し替えることで、江戸城の鎮護とし、江戸という新興都市を権威付けようとしたわけだ。
天海は、ただ寺院のみを移し替えようとしたわけではない。比叡山の麓には琵琶湖があり、そこには竹生島(ちくぶじま)が浮かび、弁財天が祀られている。その構図全体を江戸に移入しようとした。不忍池を「琵琶湖」にするために、不忍池に中島を築き、弁財天を祀ることとなった(厳密には、それ以前より中島の北に小さな島があり、そこに弁財天が祀られていた)。天海僧正は不忍池の魚鳥をとることを禁止し、また供養のために魚鳥や亀などを放つ「放生池」(ほうじょうち)と定め、そこに紅白の蓮を植えた(現在は紅色の蓮、「紅蓮(ぐれん)」のみのようだが)。
このように不忍池は仏教的な要素を根底に持った、特権階級の所有物として誕生しながら、やがて庶民の憩いの場として発展していく。吉野と桜、隅田川と都鳥のような「歌枕」(古典若の歴史の中で、歌に幾度も詠まれた名所)と「景物(けいぶつ)」(「歌枕」に関連する自然物)の組み合わせのように、不忍池と蓮も新しい組み合わせとなっていく。
延宝8年(1680)刊の『江戸方角安見図鑑』では、不忍池に蓮が描かれている。また戸田茂睡が著わした江戸名所案内書の『紫の一本(ひともと)』(天和3年【1683】頃成立)でも、この地について「池のこなたの汀のさざ浪、蓮の枯葉のうかびたるも見ゆれど」とある。江戸中期の代表的な江戸の地誌『江戸砂子(すなご)』(菊岡沾涼[せんりょう]著 享保17年【1732】刊)には不忍池についてこう記している。
「東叡山の麓にして、天台四観の湖水浪しづかにして、紅白の荷葉(「かよう」、「荷」=蓮)は水面をふさぎて、ただ芝の如し」
芝のように水面を覆う一面の蓮。不忍池についてではないが、池をおおいつくす蓮の様子は西行も詠んでいる。
「おのづから月やどるべきひまもなく池に蓮(はちす)の花咲きにけり」
このイメージを伝える江戸時代の浮世絵にはお目にかかったことはないが、「昭和の広重」と呼ばれた川瀬巴水(はすい 1883年【明治16年】- 1957年【昭和32年】)の「芝弁天池」(増上寺境内の南西隅にあった蓮池。池の中島に弁財天を祀っていたことから「弁天池」とも呼ばれた。太平洋戦争後は、埋め立てられ小さな人工池となる)は不思議な魅力に満ちた作品だ。
この芝増上寺内の弁天池や赤坂の溜池も江戸の蓮の名所だったが、東都一の蓮の名所はなんと言っても不忍池だった。江戸後期の『江戸名所花暦』(岡山鳥著・長谷川雪旦画 文政10年【1827】刊)や『江戸名所図会』(斎藤幸雄著・長谷川雪旦画 天保5・7年【1834・36】刊)にはこうある。
「花盛りのころは、朝まだきより遊客(ゆうかく)、開花を見んとて賑はふ。実に東雲(しのめ)のころは、匂ひことにかんばしく、また紅白の蓮花(れんげ)、朝日に映ずる光景(ありさま)、たとへんに物なし。」(『江戸名所花暦』「不忍池」)
「東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す。不忍とは忍の岡に対しての名なり。広さ方十丁ばかり、池水深うして旱魃にも涸るることなし。ことに蓮多く、花の頃は紅白咲き乱れ、天女の宮居(みやい)はさながら蓮の上に湧出するがごとく、その芬芳(ふんぽう=よい香り)遠近の人の袂を襲ふ。」(『江戸名所図会』)
揚州周延「不忍池」
広重「東都名所 上野東叡山全図」
「竹生島祭礼図」
『江戸方角安見図鑑』寛永寺、不忍池
広重「江戸名所 溜池山王の社」
川瀬巴水「芝弁天池」
広重「東都名所 上野不忍蓮池」
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