「夏目漱石と日露戦争」8 『草枕』②「死んで御出で」

 那美の言動は世間並みを外れていて、地元の床屋の親父は「余」に「旦那あの娘は面(めん)はいい様だが、本当はき印ですぜ・・・村の者は、みんな気狂(きちげえ)だって云ってるんでさあ」と語る。そしてその証拠として、こんな話をする。かつて那美に惚れた観海寺の泰安という坊主が文(ふみ)を送った。文を受け取った那美は、本堂で泰安と和尚さんが御経を上げているところへいきなり飛び込んで来る。


「そんなに可愛いなら、仏様の前で、一所に寝ようって、出し抜けに、泰安さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ」


 しかし、那美が禅を習っている観海寺の和尚は「あの娘さんはえらい女だ」「中々機鋒(「きほう」禅語で、問答する言葉がするどく、核心をつくこと)の鋭い女」と褒める。

「御那美さんも、嫁に入って帰ってきてから、どうも色々の事が気になってならん、ならんと云うて仕舞にとうとう、わしの所へ法を問いに来たじゃて。ところが近頃は大分出来てきて、そら、御覧。あの様な訳のわかった女になったじゃて」

 この那美はしばしば「余」の前に現れて奇矯な振る舞いをしてみせるが、その真意はわからない。「余」が「鏡の池」に行きたいと言った時の事。


「「行って御覧なさい」      「画にかくに好い所ですか」

 「身を投げるに好い所です」   「身はまだ中々投げない積りです」

 「私は近々投げるかもしれません」

 あまりに女としては思い切った冗談だから、余は不図顔を上げた。女は存外慥(たし)かである。

「私が身を投げて浮いている所を――苦しんで浮いている所じゃないんです――やすやすと往生して浮いている所を――奇麗な画にかいて下さい」

「え?」            「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」

 女はすらりと立ち上がる。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。茫然たる事多時。」


 そして、もっとも驚かされるセリフが吐かれるのは、日露戦争に出征する那美の従弟の久一を、「余」が那美、那美の父・兄とともに見送る場面。


「「久一さん、軍(いく)さは好きか嫌いかい」と那美さんが聞く。

「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。

「いくら苦しくっても、国家の為めだから」と老人が云う。

「短刀なんぞ貰うと、一寸戦争に出て見たくなりゃしないか」と女が又妙な事を聞く。

久一さんは「そうさね」と軽く首肯(うけが)う。老人は髯を掀(かか)げて笑う。兄さんは知らぬ顔をしている。

「そんな平気な事で、軍(いく)さが出来るかい」と女は、委細構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。久一さんと、兄さんが一寸眼を見合わせた。

「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの冗談とも思えない。

「わたしが?私が軍人?わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」

「そんな乱暴な事を――まあまあ、目出度(めでたく)凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家の為めではない。わしもまだ二三年は生きる積りじゃ。まだ逢える」  」


 この後、プラットフォームでの最後の別れの場面でも、那美は再び「死んで御出(おい)で」と云う。一見残酷な那美の言葉は、戦争の悲惨な真実を知ろうともせず、自分の死から目を背けている久一を一喝して、死の覚悟を促しているのだろうか。それとも、「非人情」の在り方を示しているのだろうか。

1912年9月13日(明治天皇の大喪の礼の日)の夏目漱石

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