「夏目漱石と日露戦争」7 『草枕』①「天地開闢以来類のない」小説

 『吾輩は猫である』に続いて明治39年(1906)4月号の『ホトトギス』に『坊ちゃん』が発表された。『吾輩は猫である』とはガラリと世界が変わる。曖昧模糊とした世界ではなく、勧善懲悪の明解な構図。文章は歯切れがよく、たたみかけるような調子で、非常に読みやすい。それもそのはず。漱石は驚異的なスピードでこの小説を書き上げた。小宮豊隆は『坊ちゃん』の執筆時期を明治39年3月17日から同月23日までの1週間としているが、その説に従うと漱石は実に1日平均400字詰換算31枚という超スピードで書いたことになる。『坊ちゃん』の歯切れのよい文体のリズムは、こうした一気呵成の創作力の奔出から生まれた。ところが次の『草枕』(1906年【明治39】9月『新小説』に発表)はガラリと一転。ごてごてと厚化粧したように飾り立てた美文調。『坊ちゃん』のように一気に読めるような代物ではない。

あらすじはこうだ。主人公の「余」(洋画家)は、情が絡んだ世にうんざりし、情のない世界、「非人情」の世界に遊ぶ事を夢見て、山里(那古井の温泉)を訪れる。有名な書き出し。

「山路(やまみち)を登りながら、かう考えた。

智に働けば角が立つ。情にさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)人の世は住みにくい。」

 そこの温泉宿(?)に美しい「若い奥様」那美(なみ)がいた。那美は出戻りで、その自由奔放な生き方のため、村人から変人扱いされているが、「余」が「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」だった。「余」は那美にひかれていく。那美は「余」に、自分が「鏡が池」に浮いているところを描いてほしいと言うが、「余」はどうしても描くことができない。彼女には「足りないところがある」からだ。ある日、日露戦争に出征する従弟を見送りに行くが、そのとき、那美の別れた夫も汽車に乗り込んでいた。二人は発車する汽車の窓ごしに瞬間見つめあう。別れた夫の顔はすぐに消える。

「那美さんは呆然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。

 「それだ!それだ!それが出れば画(え)になりますよ」

と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである。」

 『草枕』は、かなり奇妙な小説。漱石自身これを「天地開闢(かいびゃく)以来類のない」小説だと語っている。「余が『草枕』」(『文章世界』明治39年11月)では、『草枕』の目論見についてこう説明している。

「私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない、さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。」

 有名な、「余」が入っていた風呂に那美が入ってくる場面の描写。

「この姿は普通の裸体の如く露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。凡てのものを幽玄に化する一種の霊氛(「れいふん」不可思議な気配。霊気)のなかに髣髴(ほうふつ)として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓(「はつぼくりんり」水墨山水画などで、筆にたっぷり墨を含ませて奔放に勢いよく描くさま)の間に点じて虬竜(「きゅうりゅう」角のある竜の一種)の怪、、楮毫 (「ちょごう」紙と筆 の外(ほか)に想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈(「めいばく」暗くて遠いこと)なる調子とを具えている。」

 何ひとつ明解なイメージが浮かんでこない難解な漢語のオンパレード。まるで『坊ちゃん』とは異なる。読みづらいったらありゃしない。「われわれはたんに『草枕』の多彩に彩られた文章の中を流れて行けばいい。立ちどまって、それらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない。」(柄谷行人)のだろう。こんな『草枕』だが、その随所に日露戦争が影を落としている。

ジョン・エバレット・ミレー「オフィーリア」テート・ブリテン

 「余」はこの女性にかすかにジョン・エバレット・ミレーの水死するオフェリヤの面影を見る

夏目漱石『草枕』新潮文庫

舞台『草枕』 那美:小泉今日子

 小泉今日子がどう那美を演じたか観てみたかった

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