「夏目漱石と日露戦争」6 『吾輩は猫である』⑤筋なき混沌
『吾輩は猫である』について伊藤整は新潮文庫の解説でこう書いている。
「小説としての筋ははかばかしく進行せず、常にわき道に入っては滑稽な話題や小事件のみが並んでいて、普通の意味での長篇小説を為していない。・・・『猫』の面白さは寒月と富子の恋という事件ではなく、それを取り巻いている雑談、珍談、いろいろな小事件、風呂屋の描写、親戚の娘の洋傘の話、金田の細君と迷亭の言い合い、中学生の悪戯、寒月の演説などによるのである。」
しかし、検閲を意識してか諧謔の衣をまとわせつつも日露戦争の問題も扱っているし、文明批評、時代批評、近代批判もまとまった議論を展開している。「自覚心」=自意識についての主人苦沙弥の説。
「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然(せつぜん)たる利害の鴻溝(「こうこう」大きなみぞ。転じて、大きな隔たり)があると云う事を知りすぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むに従って一日一日と鋭敏になって行くから、仕舞には一挙手一投足も自然天然とは出来ない様になる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬ程瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至る所につけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、丁度見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容(しょうよう)とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点に於て近代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢(いきおい)自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見付かるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中(「にろくじちゅう」一日の時間を「子の刻」「丑の刻」など、干支の十二刻で表していた江戸時代の使われ方で2×6で12となるため、一日中を意味)キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の呪詛だ。馬鹿馬鹿しい」
さらに、将来結婚が不可能になる、とその理由説明する中で「親子別居の制」についてこう述べる。
「今の世は個性中心の世である。一家が主人を代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した自分には、代表者以外の人間には人格がまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変わると、あらゆる生存者が悉(ことごと)く個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をする様になる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点に於ては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰も難有くないから、人から一毫も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと、弱いところは無理にも拡げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きているのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくの如く人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。」
処女作なだけに、以後の中心的問題意識があちこちに表出している。
「『吾輩は猫である』という作品は、ゆるぎない軌道をみつけだしたあとの作家と、作家以前の漱石との、その中間の混沌と渦を巻いているときの漱石を象徴するものといってよいとおもいます。その渦巻きのなかには、知識あるエリートとしての漱石がいたり、やや異常な神経に時として陥ってしまう漱石がいたり、孤独で人間嫌いで世間嫌いな漱石がいたり、それらが全部ごちゃまぜに、秩序なく、混沌としてふくまれた内省的な自意識の多様な表出として存在する・・・この作品は、複雑な作品で、しかもしいていえば、軌道が定まった漱石より以前の、混沌とした漱石のすべてのものが投げ込まれているとうけとることもできます」(吉本隆明『夏目漱石を読む』)
『吾輩は猫である』中編(1906年)表紙
『吾輩は猫である』上編(1908年)表紙
『吾輩は猫である』下編【1907年】扉の対向ページ
「吾輩」が飲み残しのビールを飲んでいる場面。この後、酔って水甕に落ちて出られぬまま溺れ死ぬ、という結末
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