「夏目漱石と日露戦争」5 『吾輩は猫である』④「権力の目を掠めて我理を貫く」
4章で「吾輩」がこんなことを語る場面がある。
「猫の悲しさは力づくでは到底人間に叶わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、如何に此方(こっち)に道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒(注:「強いばかりでちっとも教育がない」猫)の如く不意に肴(さかな)屋の天秤棒を喰う恐れがある。理は此方にあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げても一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠(かす)めて我理(わがり)を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。天秤棒は避けざる可からざるが故に、忍ばざるべからず。」
大日本帝国憲法(明治憲法)は第26条で「信書ノ秘密」、第29条で「言論著作印行集会及結社ノ自由」を定めていた。しかし、明治憲法の「表現の自由」は法律の範囲内における自由とされていたため、実際上、検閲など法律による広範な制約が加えられていた(例えば、「出版法」【1893年】)。幸徳秋水と堺利彦が1903年に創刊し、日露非戦論を主張した『平民新聞』(週刊)は,『共産党宣言』の訳出により創刊1周年で発禁処分をうけ,幸徳,堺が起訴された。そして,1905年1月廃刊。
漱石は、「権力の目を掠めて我理を貫く」道を選んだものと思われる。漱石の国家権力とのかかわり方は単純ではない。日露開戦とともに、数多くの戦争詩が作られたが、漱石が評議員の一人となっていた「帝国文学会」でも戦争詩を特集することが決定され、漱石も戦争詩「従軍行」を書く。
「 一 吾に讐(あだ=敵)あり、艨艟(もうどう=軍船)吼ゆる、
讐はゆるすな、男児の意気。
吾に讐あり、貔貅(ひきう=猛獣)群がる、
讐は逃すな、勇士の胆。
色は濃き血か扶桑(ふそう=日本)の旗は、
讐を照さず、殺気こめて。
(中略)
七 戦(たたかひ)やまん、吾武(わがぶ)揚らん、
倣(おご)る吾讐、茲(ここ)に亡びん。
東海日出で、高く昇らん、
天下明か、春風吹かん。
瑞穂の国に、瑞穂の国を、
守る神あり、八百万神。 」
一方『吾輩は猫である』の8章では、主人と市立中学校「楽雲館」の生徒たちとの「戦争」を描く。その「大戦争」は、主人の「剛慢(ごうまん)」をこらしめようと実業家の金田が、「金の威光」で生徒たちをそそのかせてやらせたもの。漱石は、戦争の背後には、他国の一部を租借地として利用し、対外的市場の獲得などの利益を追求する財閥・大実業家の策謀があると見ていたが、それを「権力の目を掠めて」ユーモアあふれる話に仕立てたのだろう。
漱石の「厭戦」を匂わせる話は随所に登場する。9章の「義捐金」の話。ある華族から日露戦争の「一大凱旋祝賀会」開催のための義援金を募集する丁重な手紙が届くが、主人は冷淡に無視する。また10章では「招魂社」(靖国神社)への嫁入りの話。主人の娘たちが、そろって「招魂社」へお嫁に行きたいと言い出す。次女のすん子に「御ねい様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きませう。ね?」と語らせている。幼い子供にまでこう言わしめる「招魂社」の美化への漱石の冷めた目。さらに、背景を知らないと全く意味不明だが、6章に「送籍」という詩人の話が登場。「送籍」はもちろん「そうせき」=「漱石」。では、「送籍」とは何か?
明治25年(1902)当時の徴兵令には、数少ない徴兵忌避の手立てが残されており、それが北海道ないし沖縄の住民となることであった(この地域で生活することが過酷な自然と対峙する開拓民としての性格を帯びるために、兵役を課する必要が当面ないと見なされたから)。そして漱石は、この条項を利用する形で、明治25年(1902)4月に北海道後志国岩内郡に籍を移し、徴兵を免れたとされる。丸谷才一は、『吾輩は猫である』に「送籍」の話を登場させたことを、日露戦争当時にも徴兵忌避に対する漱石の一種の罪の意識は続いていたとして、「明治二十五年度の自分の行為、送籍をこれほど深く気に病んでいた」(丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石)と書いている。しかし、徴兵逃れを「非国民」の業と見なす昭和の総動員体制期における価値観からの類推によって捉えるのは当を得ていないだろう。むしろ、「楽雲館」の生徒たちとの「戦争」、「義捐金」拒否、「招魂社」(靖国神社)への嫁入りと同様、「国家意識」に埋没せず、それと距離を置く漱石のしたたかな戦術と自分は受け止めているのだが。
明治39年(1906)3月 千駄木の家の書斎の漱石
明治40年(1907)5月、朝日新聞入社時の漱石
靖国神社
元来は「東京招魂社」という名称であったが、明治12年(1879)に「靖國神社」に改称。しかし一般には「招魂社」の名前で呼ばれていた。
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