「夏目漱石と日露戦争」4 『吾輩は猫である』③『趣味の遺伝』
漱石の小説の中で、『吾輩は猫である』が好きか、と問われれば「否」と答えるだろう。この小説は、多くの場面が主人公の中学校教師狆野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に集う「太平の逸民」(迷亭、水島寒月、越智東風、八木独千らの奇人変人たち)の会話場面からなるが、それらが古今東西の知識を言葉遊びの様にちりばめた「無用の閑談」と感じてしまうからだ。時は日露戦争の真最中。『吾輩は猫である』が『ホトトギス』に発表されたのは1905年1月1日、旅順陥落の日だった。しかし、そのために乃木希典率いる第三軍は、155日間の戦闘を要した。激しい戦闘に動員された日本軍約13万人のうち、死傷者は約5万9千4百人。漱石はこの現実と無関係に「太平の逸民」を描いたわけではない。例えば、苦沙弥先生の友人の美学者迷亭。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味で、四六時中、酩酊(めいてい→「迷亭」)しているような人物だが、母親からの手紙を読むこんなくだりがある。
「御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜(ロシア)と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦をして御国(みくに)の為に働いているのに節季師走でもお正月の様に気楽に遊んでいると書いてある。――僕はこれでも母の思っている様に遊んじゃいないやねそのあとへ――以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。」
漱石が日露戦争の悲劇的側面を十分に理解していたことは、『帝国文学』1906年1月号に掲載された『趣味の遺伝』を読むとよくわかる。「余」は友達と会うために出かけた新橋駅で、凱旋する兵士を迎える群集に遭遇。そして旅順で戦死した親友「浩さん」のことを思い出す。「浩さん」は「余」にとって「偉大な男」、「どこへ出しても浩さんなら大丈夫」と思える男。その彼が、敵塁の下にロシア軍が掘った塹壕に飛び込む場面。日本兵はロシア軍の機関砲によって次々に死んでいく。
「塹壕に飛び込んだ者は向こうへ渡すために飛び込んだのではない。死ぬために飛び込んだのである。彼らの足が壕底に着くや否や穹窖(きゅうこう)より覘(ねらい)を定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼らを射殺した。殺されたものが這い上がれるはずがない。石を置いた沢庵のごとく積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横(よこた)わる者に、向むこうへ上がれと望むのは、望むものの無理である。・・・これがこの塹壕に飛び込んだものの運命である。しかしてまた浩さんの運命である。・・・浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、壕の底では、ほかの兵士と同じように冷たくなって死んでいたそうだ。」
そして漱石の思いは、息子を亡くした母親に及ぶ。
「ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。・・・塹壕に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆の天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着はなかろう。しかし取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、垂れ籠めて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達に逢う。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴っぽくなる。洗湯で年頃の娘が湯を汲んでくれる、あんな嫁がいたらと昔を偲ぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪の中から折れたと同じようなものでしめ括りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一が帰って来たらばと、皺だらけの指を日夜に折り尽してぶら下がる日を待ち焦がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。」
ほぼ同時期にこのような小説を発表した漱石が、「太平の逸民」の「無用の閑談」の形で『吾輩は猫である』を書いたのはなぜか?
映画『吾輩は猫である』 監督:市川崑 主演:仲代達也
映画『吾輩は猫である』
NHKドラマ『夏目漱石の妻』
原作:夏目鏡子述 松岡譲筆録『漱石の思い出』 鏡子:尾野真千子 漱石:長谷川博己
NHKドラマ『坂の上の雲』
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