「夏目漱石と日露戦争」3 『吾輩は猫である』②「大和魂」
日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)は、1905年9月5日に締結された。そこには、韓国における日本の権益の承認、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道と付属の利権の譲渡、樺太南半の割譲などが盛り込まれたが、賠償金はなかった。戦時中、財政的に苦しくなった政府は、増税を施行し国民に重い負担を強いた。生活苦に陥りながらも国民が耐え忍んだのは、講和によって獲得する賠償金で生活苦から抜け出せると考えていたからだ。賠償金無しと知った国民は、不満を爆発させる。9月5日、東京・日比谷で開かれた「日露講和条約反対国民大会」に集まった参加者たちは暴徒化し、多くの警察署や御用新聞の国民新聞社、内務大臣官邸などが襲撃され、戒厳令まで敷かれる騒ぎとなった(「日比谷焼打事件」)。
しかし一方、兵士らは大歓待をもって迎えられた。東郷長官率いる連合艦隊は10月22日、横浜港に入り長官以下の艦隊首脳たちは東京に凱旋する。新橋駅前には凱旋門が特設され、万歳、万歳の寄せては返す人並みにうまった。人びとの熱狂ぶりを新聞がこう報じている。
「数日来の陰雨21日夜に入りて収まりぬ。22日朝は常より新たなる光輝を望み、戸々を飾る国旗軍艦旗は菊花の薫をうけて翻り、貴きも卑しきも、老いたるも若きも、男も女も、凱旋将軍の馬車にても見、万歳の一声をさけばんとして集まりしなり。22日午前10時過ぎの空は、幾千万の人の気によりて晴れ渡り。慶雲いま東より西に渡るを見る」
新橋駅頭のお祭り騒ぎは翌年初めまで連日繰り広げられたが、1905年12月9日、漱石も前々からそこで人と会う約束があって新橋駅にいた。この日の駅頭は、第一軍司令官黒木為楨(ためもと)大将とその司令部幕僚たちの帰京を出迎える大群衆であふれていた。この時の体験も踏まえて書かれたであろう漱石の小品『趣味の遺伝』(12月3日から12日までの間に書かれた)のなかにこんなくだりがある。凱旋将軍を迎える駅の万歳の渦の中で、主人公の「余」は「戦争を狂神のせいのように考えたり、軍人を犬に食われに戦地へ行くように想像」したりする。しかし、こんなふうに考えていることを他人に見抜かれたら、とがめられ罰せられるだろうと思い、「万歳の一つ位は義務にも申して行こう」と行列の中に割り込んでいく。
「余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日に至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられた覚(おぼえ)は毛頭ない。また万歳を唱えては悪いと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声(たいせい)を発しようとすると、いけない。小石で気管を塞がれたようでどうしても万歳が咽喉笛へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」
当時の漱石の心境と大多数の日本国民のそれとはかなり異なっていたようだ。それは「大和魂」の捉え方にも表れている。明治日本は、日露戦争の勝利によって、世界に冠たる国家、民族という自覚、自信をもつことができた。そして、それをもたらしたのは、欧米人やほかのアジア民族には類を見ない日本人の精神力、すなわち大和魂と考えた。もともと苦し紛れに唱えたはずの大和魂だったが、世界史に輝くような大勝利は日本民族しか持ちえない大和魂の勝利なのだと教えられた国民は、熱狂し、有頂天になった。しかし、そんな大和魂に疑いをさしはさむ人がいなかったわけではない。漱石もその一人だった。『吾輩は猫である』第6章(これが書き上げられたのは、「日比谷焼討事件」の余燼もおさまった9月末頃)に、主人公の苦沙弥が苦心の作文を客の前で読み上げる場面。
「大和魂!と新聞屋が云う。大和魂!と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする・・・東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋の銀さんも有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている・・・大和魂がどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた・・・三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらしている・・・誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」
なんとも物騒な文章を漱石は書いたものだ。明治38年の日本はまだまだおおらかだった。
1905年10月22日 連合艦隊の東京凱旋風景
新橋停車場前の広場の凱旋門で盛大に行われた満州軍総司令部のパレード
秋山真之 日本海海戦を大勝利に導いた名参謀
日本海海戦での秋山真之
増税の重荷を背負った国民と戦利を得た者たち(『東京パック』より)
「日比谷焼打ち事件」 下谷警察署の焼き討ち
「日比谷焼打ち事件」 焼き討ちされた京橋警察京橋分署
「日比谷焼打ち事件」 内相官邸(正面)の焼き討ち
黒木為楨
0コメント