「夏目漱石と日露戦争」2 『吾輩は猫である』①「日本海海戦」
漱石の処女小説『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)1月、のちの第1章に相当する部分が『ホトトギス』に発表され、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続。1905年6月に掲載された第5章に、苦沙弥宅に泥棒が入って大騒ぎになる話がある。その騒動の最中に、もと苦沙弥の家の書生で、今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている多々良三平がやって来る。そして、「吾輩」(猫)について苦沙弥の細君とこんな会話をする。
「この猫が犬ならよかったのに――惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大(ふと)か奴を是非一丁飼いなさい――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕りますか」
「一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々(ずうずう)しい猫ですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私が貰って行って煮て食おうかしらん」
多々良の声を聞きつけて、茶の間へ出てきた主人(苦沙弥)とも同様の会話。
「然し一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どういう了見じゃろう。鼠は捕らず泥棒が来ても知らん顔をしておる。――先生この猫を私にくんなさらんか。こうして置いたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「やっても好い。何にするんだ」
「煮て食べます」
その後、「吾輩」は長い哲学的述懐の後に一大決心をする。
「吾輩はとうとう鼠をとる事に極めた。
先達中(せんだってじゅう)から日本は露西亜(ロシア)と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓(びいき)である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思う位である。かくまでに元気旺盛な吾輩の事であるから鼠の一疋(ぴき)や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なく捕れる。」
そして鼠捕獲の作戦計画を立てる。
「どこで鼠と戦争するかと云えば無論鼠の出る所でなければならぬ。如何に此方(こっち)に便宜な地形だからと云って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここに於てか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真ん中に立って四方を見廻す。何だか東郷大将のような心持がする。」
東郷大将とはもちろん、連合艦艇司令官で日本海海戦で大勝利をもたらした東郷平八郎。
「(鼠が)戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現れる時はこれに対する計(はかりごと)がある、又流しから這い上がるときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに極めねばならぬとなると大に当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、或は遠く宗谷海峡を廻るかに就(つい)て大に心配されたそうだが、今吾輩自身の境遇から想像してみて、御困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位に於てもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。」
1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけての日本海海戦で日本は圧勝。38隻で日本にやってきたバルチック艦隊は、戦艦8隻のうち6隻を含む計16隻が撃沈され、6隻が自沈した。日本軍が捕獲したのは戦艦2隻を含む6隻。ウラジオストックにたどり着いたのは3隻に過ぎなかった。このバルチック艦隊がフランス領インドシナ(現ベトナム)の最後の停泊地から5月14日に出撃、という報告が届いたのは5月18日頃。そしてこれ以降の新聞はしきりに、バルチック艦隊がいずれの海峡を通るか、についての苦悩を報じた。どこで迎え撃つかは戦争の先行きを決定づけるため、日本中がその話題で沸騰していた。漱石は、その状況を「吾輩」の鼠捕獲作戦という形で描いたのである。それは日本海海戦の翌月の事だった。
日本海海戦の勝利を伝える新聞
同盟国のイギリスでも確認のために新聞を遅らせたというほど世界を驚かせた
東郷平八郎
バルチック艦隊の予想航路
ロシア太平洋艦隊の拠点ウラジオストックを目指していた。もう一つの拠点旅順はすでに陥落していたため。
新潮文庫『吾輩は猫である』
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