「夏目漱石と日露戦争」1 作家デビューと旅順陥落
夏目漱石の作家デビュー作は『吾輩は猫である』。1905年(明治38)1月1日、親友正岡子規がつくった俳句雑誌『ホトトギス』に発表された。そしてこの日は、ロシア軍が自ら「永久要塞」と呼んで誇った「旅順要塞陥落」の日でもあった。それが、日本を日露戦争勝利に導くうえでどれほど大きな意義を有するものだったか?
開戦前から、ロシア海軍が合流戦略、すなわちバルト海にいるバルチック艦隊を極東に派遣し、旅順艦隊と合流させることを日本軍は予想していた。そのため、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、「開戦第一撃でロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)に大打撃を与えて無力化する」という目標を立てて、開戦初日の1904年2月9日先制奇襲攻撃を行う。午前0時30分頃、駆逐艦10隻が夜の闇にまぎれて密かにロシア艦隊が停泊する旅順港へ接近し、ロシア艦に向けて各艦2発ずつの魚雷を発射。しかし、完全な奇襲であったにもかかわらず、20発中3発の魚雷しか命中しなかった。午前11時45分頃、旅順港の前面に進出した連合艦隊は港外に停泊していたロシア艦隊の主力を発見し砲撃戦となる。ロシア側は水上艦に加えて沿岸砲台からも日本の艦艇に向けて撃ち込んだため、連合艦隊は港口から6キロメートル以内に接近することができなかった。
そこで東郷は作戦を変更。海戦による「敵艦隊の撃滅」から、旅順口(港の入口)の閉塞による「敵艦隊の無力化」(狭い旅順港の入口を、老朽船を沈めて塞ぎ、ロシア艦隊を港内に閉じ込める作戦)へと方針を転換する。しかし三度にわたる「旅順口閉塞作戦」は失敗。もはや敵艦隊の撃滅も無力化も不可能と判断した東郷は、陸軍部隊による陸側からの旅順攻略作戦を要請。難攻不落の旅順要塞攻略を担ったのは乃木希典率いる第三軍(4個師団,後方部隊を含み約13万)。8月19日、第1回総攻撃は強襲により行われたがわずか7日間で戦死者5017人を出して中止。10月26日に開始した第2回総攻撃は、塹壕を掘り進む「築城作戦」をとったがこれも失敗。一方、10月15日、いよいよロシア・バルチック艦隊が母港リバウ(現・ラトビアのリエパーヤ)を出港したとの報が伝わる。参謀本部は乃木へ「神速」の攻略を迫る。しかし各師団から選ばれた決死隊「白襷(しろだすき)隊」による攻撃も壊滅的打撃。11月27日、乃木は攻撃目標を「二〇三高地」に転換。そしてついに12月5日、二〇三高地を占領。すぐに湾内の旅順艦隊に砲撃を開始。自沈処理も含め旅順艦隊は壊滅した。さらに、二〇三高地を拠点に東北方面の各堡塁を次々に占領。ついにロシア軍は降伏。これが1905年1月1日の旅順陥落に至る経緯である。
『吾輩は猫である』の冒頭近くに、こんな一節がある。寒月が苦沙弥の家にやってきて、散歩にさそうくだり。
「どうも好い天気ですな、御閑(おひま)なら御一所に散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」
この正月、「旅順陥落」の号外が日本国中にばらまかれた。哲学者西田幾太郎も日記にこう記した。
「午後三時半頃、旅順陥落、ステスセル(注:ロシア旅順要塞司令官)降伏の号外至る。愉快不自禁。北国男子忠勇の功なり。全市鐘鼓を鳴らして之を祝す。」(1905年1月2日)
ロシア革命の指導者ウラジミール・レーニンは、新聞『前進』に寄稿した「旅順の陥落」の一節で、その歴史的衝撃の意味をこう述べている。
「旅順は降伏した。この事件は、現代史上の最も大きな事件の一つである。」
「旅順の要塞はヨーロッパの多くの新聞が、難攻不落とほめたたえたものである。軍事評論家は一つの旅順は六つのセヴァストポーリに等しいと主張した。英仏の連合軍でさえセヴァストポーリの占領に1年間かかったが、日本は、弱小でいままで軽蔑されていた日本は、8か月でこの要塞を占領したのである。この軍事的打撃は取り返しのつかないものである。日本が旅順を奪回したことは、反動的ヨーロッパ全体に加えられた痛打である。」
「旅順の降伏はツァーリズム降伏の序幕である。」
漱石の作家デビューは、奇しくもこの歴史的事件「旅順陥落」と同じ1905年1月1日のことだったのである。
陥落後の旅順港
旅順をめぐる攻防
「白襷隊」
二〇三高地
バルチック艦隊航海図
「水師営の会見」 乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した
第3軍司令官 乃木希典
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