「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」13 その後

 第一ミラノ時代以後のレオナルドは、一か所に長くとどまることはなく、その滞在は長くて数年、短いときにはたった数か月というものだった。

 1500年【48歳】 マントヴァ、ヴェネツィアを経てフィレンツェへ[第二フィレンツェ時代]

 1506年【54歳】 フランス総督の招きでミラノへ[第二ミラノ時代]

 1513年【61歳】 ローマへ

 1516年【64歳】 フランソワ1世の招きでアンボワーズへ

 1519年【67歳】 クルーの館で永眠

 第二ミラノ時代、レオナルドは再び騎馬像の制作を依頼され、今度こそは騎馬像の実現を夢見るが、フランス軍の敗退によりまたもや企画は頓挫。ローマへ移ってからも、偉大な芸術家として丁重な扱いは受けるが、重要な作品の依頼は来ない。「未完の画家」というレッテルを貼られてしまっていたから。熱心に取り組んだ解剖学研究も、ローマ教皇庁から解剖禁止命令が下ってしまう。失意のレオナルドに手を差し伸べたのは、フランス王フランソワ1世。国王付きの画家・建築家・技師として迎えられたレオナルドは、城や都市の設計、舞台の企画などを行う。そして、1519年、クルーの館でその生涯を閉じた。

 ところで、レオナルドの生涯を理解する上で欠かせないのは、30歳過ぎからその生涯を終えるまで、座右においてあった手帳、いわゆる「手稿」(「アトランティコ手稿」、「パリ手稿」、「マドリッド手稿」など)。現在、約8000ページが世界各地で保存されているが、実はこの倍以上がまだ失われたままだと言われる。手稿の内容は、実に多岐にわたっている。自然観察、天文、水の生態、数学、語学、解剖学、地球物理学、建築、鳥の飛翔、機械や兵器の発明、水力学、地質学などなど驚くほど幅広い。レオナルドは、この成果を立派な「論考」として執筆する野心を抱いていた。そのことは、彼がまだ見ぬ著作を夢見て、少なくとも五つの「序文」草稿を書いていることからわかる。その一つ。

「序文。わたしが文字を知らないので、傲慢な人々は、わたしを「無学者」だと主張するだけで、正統に批判できると思い込んでいることは、よく承知している。愚かな人々だ!・・・彼らは、わたしが文字を知らないので、論じたいことを上手に表現できないと言うだろう。このような連中は、私の論じていることが、他人の言葉からでなく、実際の経験から得ていることを知らないのだ。この経験こそは、立派に書いた人の師匠であったのだから、わたしもこの経験を師匠として、あらゆる場合に引用することにしよう。」(アトランティコ手稿)

 しかし、「論考」執筆の野心は叶えられなかった。レオナルドは、いかにも職人らしく、自分の発見した自然法則を、金言のように短文にして終わることが多く、学者たちを納得させるような、権威者の引用で脇を固めた長い論述と証明は苦手だったからだ。もちろん、彼が自分の科学的成果の公表をためらったのも理由だ。彼の「経験」(実験的方法)は、神の言葉(聖書)とその周囲を固めるスコラ哲学の方法を否定するものであったから、権威筋から異端思想の烙印を押される可能性があった。レオナルドは相手に応じて話題も話し方も変えられるような賢明な人間だったが、常人とは異なる奇妙な研究活動から、いつからともなく自然界の神秘を極めた魔術師ではないか、という噂が立っていた。そのため、カトリック教会から異端者として目をつけられる可能性が大いにあったのである。

 いずれにせよ、レオナルドはいつ、いかなる状況の下だろうと、そのチャレンジが何度挫折しようと、探究を続けた。主体的追求を続ける人間は、彼の姿勢、その世にも稀な忍耐心と勤勉さに学ぶ必要があるだろう。最後に、ある幻の「序文」のレオナルドの言葉。

「読者よ、もしわたしの書いたものを享受できるなら、わたしを読みたまえ。わたしのような者は、きわめて稀にしかこの世に生まれてこないのだから。というのも、このような事柄について著述するような忍耐心は、ごく少数の人にしか見出せないからだ。それゆえ、人類よ、この研究によって自然の中に見出される奇跡の数々を見にきたまえ。」(マドリッド手稿)

アングル「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」プチ・パレ

 レオナルドを抱きかかえているのはフランソワ1世だが、これはフィクション。ただし、二人の深い信頼関係はよく表現されている。


ジャン・クルーエ「フランソワ1世」ルーヴル美術館

クルーの館

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」ルーヴル美術館

 「聖アンナと聖母子」、「洗礼者ヨハネ」とともに、最後までレオナルドは手元において手を加え続けた

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」ルーヴル美術館

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」ルーヴル美術館

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