「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」12「イタリア戦争」③マキャヴェリ

 メディチ家と言えばロレンツォ・イル・マニーフィコ(ロレンツォ豪華王)が有名だが、それはルネサンスの芸術家のパトロンとして。政治家として(実は芸術家のパトロンとしても)圧倒的に優れていたのは「祖国の父」と呼ばれたロレンツォの祖父コジモ・ディ・メディチ。オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落(1453年)を半島全体の危機と捉え、北イタリアのミラノ公国を訪れてミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ(イル・モーロの父)と面談し、「いまイタリアの五大国がお互い同士トラブルを起こしていると、オスマン朝がイタリアに介入する絶好の口実になる。それゆえ、五大国が争いを起こさぬと誓い合うことが必要である」と熱く説く。コジモはヴェネツィア共和国のドージェ(元首)フランチェスコ・フォスカリ、教皇ニコラウス五世、ナポリ王アルフォンソ五世からも同意を得る。そして1454年、ミラノに近いローディに四人を招聘し、結ばれた平和条約が「ローディの和」である。これから1494年までの40年間、イタリア半島は奇跡的な平和の時代を迎え、その平和の時代にイタリア・ルネサンスの大輪が花ひらいた。

 「ローディの和」崩壊後のイタリア戦争時代、イタリア統一というビジョンを持って行動した唯一の君主としてマキャヴェッリが『君主論』の中で激賞したのがチェーザレ・ボルジア。

「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。」(『君主論』26章)

 チェーザレは教皇アレクサンドル6世の庶子(妻帯を禁止している聖職者の子どもというのも奇妙な話だが)。教皇となった父の保護のもと、聖職者となり、18歳で枢機卿に任じられる。フランス王ルイ12世のもとに教皇特使として派遣され、その信任を得る(おそらくレオナルドは、フランス軍がミラノを占領した際、フランス軍と行動をともにしていたチェーザレと出会ったのだろう)。聖職者から還俗し、ナヴァラ王の妹と結婚、ヴァレンティーノ公となり、ローマ教皇領の拡大に努め、傭兵部隊を駆使してロマーニャ地方を攻略、すぐれた政治的手腕を発揮した。彼は激しい権力欲を抱き、人を利用し、欺き、冷徹で残虐だったが、臣下に愛され民衆に支持された。

 レオナルドは1502年夏、このチェーザレの軍事技師に就任する。チェーザレはこの時、フランス王の庇護の下でイタリア中部に強力な国家を建設している最中だった。レオナルドの仕事はチェーザレの公国の要塞と防衛施設を点検し、必要な改良や修理をおこなうことだった。そしてチェーザレの軍が計略によりつぎつぎと都市を陥落していくにしたがい、レオナルドもまた都市から都市へ移動した。軍事工学長官の仕事をこなすだけでなく、旅を利用して、各地の地形を研究し、地図を準備し、沼沢の干拓方法を調べた。

 この時、フィレンツェ共和国の派遣委員としてチェーザレに随行して、彼の言動と意図を観察し続けていたのがニッコロ・マキャヴェリ。レオナルドとマキャヴェリは親交を結ぶが、当面の作戦行動が終了したチェーザレが1503年2月にローマにもどったため、ともにフィレンツェに帰る。この2人をさらに強い友情で結びつけることになったのは戦争。当時フィレンツェが躍起となっていたピサ攻略だ。政府の第二書記局長のマキャヴェリの推挙でフィレンツェの軍事技師に採用されたレオナルド。マキャヴェリと協力して、実に野心的で大胆な作戦の実行を試みる。「アルノ川変更計画」。1503年7月、フィレンツェ軍はピサの周辺地域をほぼ制圧したが、ピサの城壁の守りは堅くて、それを破ることはできなかった。膠着状態になり、持久戦と兵糧攻めに入ったが、フィレンツェ軍は、海からの補給路を完全に断つことができない。そこでレオナルドが立案したのが、アルノ川の流れを変えてピサの下流のアルノ川を干上がらせる作戦。ピサの手前でアルノ川をせき止めて、運河でリヴォルノ沼に流れるようにしようとした。レオナルドは、運河掘削機や、水位を調節する水門まで考案。しかし、この計画は1504年8月に実行に移されたものの、資金不足や悪天候もあってわずか2か月後に中止。人びとから物笑いの種にされた。

 この間レオナルドは、1503年、フィレンツェ政府からヴェッキオ宮殿の大会議室壁面に「アンギアーリの戦い」を描くように依頼されていたが、レオナルドは彩色を始めた時点で仕事を放棄してしまう。。ミケランジェロも、隣り合った壁に「カッシーナの戦い」を描くことを依頼され、世紀のライバルの競演に人々の関心も高かったのだが。このようにうち続く失敗の中でもレオナルドの探求心が萎えることはない。

ルーベンス「レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーリの戦い』の模写」ルーヴル美術館

ポントルモ「コジモ・ディ・メディチ」ウフィツィ美術館

アルトベッロ・メッローネ「チェーザレ・ボルジア」アッカデミア・カッラーラ

レオナルド・ダ・ヴィンチ「イモラ市街図」

 1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。まるで航空写真のように描かれている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「運河掘削機」アトランティコ手稿 アンブロジアーナ図書館

サンティ・ディ・ティト「ニコロ・マキャヴェリ」ヴェッキオ宮殿

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