「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」11 「イタリア戦争」②ミラノ脱出
レオナルドが仕えたイル・モーロはミラノを去り、1499年9月6日、フランス軍がミラノに入城。レオナルド所有の唯一の不動産1ヘクタールのブドウ畑(『最後の晩餐』や室内装飾の仕事の代償として、イル・モーロから下賜)も軍政府に没収される。10月6日にはルイ12世がミラノに入城。6週間ミラノにとどまったが、それはイル・モーロに近い関係にあった者たちにとって深刻な事態だった。しかし、レオナルドはすぐにミラノを脱出しない。12月までとどまっている。レオナルドは生き延びるため、フランス軍と何らかの取引をしたようだ。それならなぜ、この年の暮れにミラノを去るのか?かつてのパトロンイル・モーロを避けるためだ(イル・モーロの帰還を待ち望んでいた、という説もあるが)。9月2日に、皇帝マクシミリアンから支援を取り付ける希望を抱いてインスブルックに向かったイル・モーロだったが、翌1500年2月に一時的とはいえミラノの領有権を奪い返す。フランス軍が去った1499年12月頃、スフォルツァ家に忠実な人々は、皇帝マクシミリアンの援助を受けて、まもなくイル・モーロが帰還すると言いふらしていた。もし帰還すれば、フランス支配下のミラノにとどまったレオナルドは、占領者フランス軍に「協力した」と非難されても不思議ではない。レオナルドは、かつてのパトロンを避け、また混乱した状況を避けて、1499年の暮れにミラノをあとにしたのだろう。
では、ミラノを去る直前、レオナルドはミラノ時代に築いたであろう600フィオリーノという大金をフィレンツェ(サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院。当時、銀行業務も手がけていた)に送金している。しかし、まず向かったのはヴェネツィアだった。途中寄ったマントヴァで侯妃イザベラから肖像画を依頼されながら、下絵だけ描いて、後で仕上げて送りますと約束したまま、そそくさと立ち去り、ヴェネツィアに急行。なぜか?ヴェネツィアは、レオナルドが仕えたミラノ公国の宿敵ではなかったか?
当時ヴェネツィア共和国はフランスと同盟を結んで、ミラノ公国を攻撃してその東部を自国領に編入した。しかし、ヴェネツィア共和国自体も強大な外敵の脅威にさらされていた。オスマン帝国である。この巨大帝国の攻撃を食い止めるためにはどうしたらよいか?ミラノのフランス軍政府が、軍事技師として名の知れていたレオナルドをその対策のために同盟国ヴェネツィアに派遣したのだろう。レオナルドはイゾンツォ河(ヴェネツィアの北東フリウリ地方にある河。現在もスロベニアやクロアチアとの国境となっている)を調査し、洪水の際の水位を記録し、地元の人々との会話から情報を集め、ヴェネツィア政府に防衛案を提出した。レオナルドは、トルコ軍がイタリアに侵入する際、必ず行き当たるイゾンツォ河の上流にいくつかの堰を設けておいて、敵が仮設の橋を渡ろうとした時を狙ってその堰を切り、洪水で一気に敵軍もろともは死を押し流す作戦を提案したようだ。
このように、レオナルドはミラノの宿敵フランスやヴェネツィアのためにも仕事をしたが、さらに驚くべき行動をとっていたことが1952年に明らかになった。それは、イスタンブールで偶然発見されたレオナルドの手紙。オスマン帝国のスルタン(皇帝)バヤズィト2世に宛てたものだ。皇帝は当時、イスタンブールの金角湾に架ける橋の設計プランを求めていた。レオナルドが手紙の中で記したのは、「建物ほどの高さがあり大型船も下を通れる石橋」で、全長366メートル以上に及ぶものだった。強風にも耐えられるよう両端には巨大な橋台が備えられていた。また、地震の多いイスタンブールで強い揺れにも耐えるように設計されていた。結局、ダ・ヴィンチの橋の案は却下され、金角湾に橋が架かったのは19世紀に入ってからだったが、ダ・ヴィンチの死から500年後、この橋が建設可能だったことがマサチューセッツ工科大学の研究チームによって実証されている。
経済的に援助してくれる人物であれば、どのような権力者のためにでも仕事を引き受けたレオナルド。その姿は一見、無節操にも映る。しかし、彼にとっては自分の研究という目的のために必要なことへのためらいなど微塵もなかったようだ。それこそが、権謀術数渦巻くこの時代にあって、レオナルドの不断の探求を可能にしたのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「金角湾に架ける石橋」 パリ手稿
レオナルド構想の金角湾橋の模型
バヤズィト2世
レオナルド・ダ・ヴィンチ「イザベラ・デステ」ルーヴル美術館
レオナルド・ダ・ヴィンチ「グロテスク顔面」
自然界を探求したレオナルドにとって、権力者も含め人間は卑小な存在に映っていたように思う。だから、どんなパトロンであろうとこだわりなく仕えることができたようだ。
0コメント