「マルティン・ルターと宗教改革」8 「破門」

 1520年11月、教皇レオ10世はルターの頑なな主張に対して破門威嚇勅書「エクスルゲ・ドミネ(主よ、立ちたまえ)」を発令。その内容は、「95ヶ条の提題」やルターの著書から41箇所について断罪し、60日以内に彼が自説を撤回しない場合には破門に処するというものであった。しかしルターはヴィッテンベルクの城門前で、この勅書と教会法を公然と火に投じた。ローマ・カトリック教会では、教会法は世俗の法と違い、神が教会に与えた法と理解されていたから、それを火中に投じたということは、ローマに対する全面否定の意思表示を意味していた。ルターは「責任を果たさないで良心に重荷を負うよりも、あらゆる危険を耐え忍ぶ道を選ぶ」と言って教皇との対決を公に宣言。1521年1月、ついにルターはローマ・カトリック教会から破門される。

 このような教会の決定を受け、慣習に従ってルターの処置を決定するのは皇帝である。1519年、皇帝マクシミリアン1世が亡くなり、孫のスペイン王カールが皇帝選挙でフランソワ1世に勝って新皇帝に就く。そして1521年4月、カール5世は初めての国会(帝国議会)をウォルムスで開催。ローマ側であったカール5世は、ヨーロッパの「キリスト教一体世界」の維持、さらにはオスマン帝国の脅威への備えのために、改革運動のもたらす教会分裂に終止符を打つべく、ルターを国会に喚問して所説の撤回を迫る。ルターの喚問は1521年4月17日から2日間にわたって行われた。国会での喚問という政治的な圧力にも、もはや彼の心が揺らぐことはなかった。2日目の喚問の際、ルターはこう答えたと記録されている。

「聖書の証言と明白な根拠をもって服せしめられない限り、私は、私が挙げた聖句に服しつづけます。私の良心は神の言葉にとらえられています。なぜなら私は、教皇も公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ、アーメン」。

 ルターは皇帝によって帝国追放令に処せられる。帝国内での生命の安全が保障されなくなったのだ。教皇からは「破門」、皇帝からは「追放令」。教会と国家の二重支配が中世ヨーロッパ社会だったから、異端宣告は教会と世俗権力の共同作業として行われており、ルターは文字通り異端となった。100年前なら火刑になっても不思議ではなかったが、ヤン・フスのように火刑に処せられることは免れた。ドイツでの情勢を考えると、皇帝もそのような決断は下せなかったのである。教皇にかつての強大な権力がないことも、これで明らかとなった。

 ところで、この喚問に際して皇帝はルターの往復路の安全を保障していたが、ウォルムス国会の帰路、ルターの一団は何者かに襲われルターは行方不明になる。ルター死す、という噂がまたたく間に広がった。改革運動の賛同者だった画家のデューラーは、その報に接し日記にこう書いた。

「ああ、神よ、ルターが召されたとすれば、誰が福音をわれわれに伝えてくれるのだろうか」

 しかし、ルターは生きていた。じつは襲撃とはカモフラージュで、事実上のルターの保護者であったザクセン選帝侯フリードリヒ賢公(政治的な理由で自らの立場はあいまいにしていた。彼は石橋をたたいても渡らないほど用心深い人物で、それゆえに「賢公」と呼ばれた)の意を受けた宮廷顧問官たちが仕組んだ誘拐劇だった。つまりお尋ね者のルターを一時、人里離れたヴァルトブルク城に匿い保護したのである。ワグナーの「タンホイザー」にも登場するこの城は、守備隊長に率いられた一隊の兵士たちが駐屯する物見の城。ルターはこの城内に大きな一室を与えられ、修道士の衣装を脱いで鎧をまとい、髭をたくわえて首から金の鎖まで下げ、すっかり騎士姿に変装した。彼は「騎士ヨルク」として、1年近くをこの美しい城で過ごすことになる(1521年5月~1522年3月)。

カール・アスペリン「ヴィッテンベルク広場で教皇の勅書を燃やすルター」

アントン・フォン・ヴェルナー「ウォルムス帝国議会でのルター」シュトゥットガルト州立美術館

ベルナールト・ファン・オルレイ「カール5世」ブール美術館

ルーカス・クラナッハ「ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公」レーゲンスブルク歴史博物館

ルーカス・クラナッハ「騎士ヨルクとしてのルターの肖像」ライプツィヒ造形美術館


「騎士ヨルク姿のルター」

ヴァルトブルク城

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