「マルティン・ルターと宗教改革」7 「ライプツィヒ討論」

 「95ヶ条の提題」は印刷術のおかげで、たった2週間で全ヨーロッパに拡がった。驚いたのはアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク。自分の「金策」に悪影響が生じることを恐れ、ローマ教皇レオ10世に提題の一部を送って処置を要請。しかし教皇庁は当初それをあまり問題にしなかった。ドイツ・ザクセン地方の無名の一修道士の提言にすぎないローカルな話題と見なしていた。そのためこの問題をルターが属していたアウグスティヌス修道会内で解決するように指示する。そこで1518年4月、ハイデルベルクで開かれた修道会の総会の際、ルターの主張をめぐって討論会が行われた(「ハイデルベルク討論」)。この討論は公開で行われたため、多くの人が傍聴に訪れた。討論に参加した年長の修道士たちの多くはルターの主張に否定的だったが、若い修道士や司祭の中には、ルターの神学的発言に共感して、のちに宗教改革に加わることになる者もいた。

 いずれにせよ、ひとたびついた火は燎原の火のごとく燃え上がり、ルターをめぐって喧々囂々の混乱状態になる。それまで静観を決め込んでいた教皇レオ10世もついに動き、1518年8月7日、ルターのもとに「60日以内にローマに出頭せよ」という命令が届けられた。ルターはザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の助力を得てローマ召還をなんとか退ける。それが可能だったのは、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の後継問題がからんでいる。神聖ローマ帝国皇帝を選出する権限を有する選帝侯の影響力は大きかったため、教皇もザクセン選帝侯を味方につけたルターに対して強い態度をとれなかったのだ。そこで教皇庁側はローマ召還に代えて、高名なイタリア人神学者カエタン枢機卿をアウグスブルクに派遣。カエタンは、二つの点において、ルターの主張には受け入れがたい問題があると見ていた。ひとつは、教皇の権威の点において、もうひとつは、信仰の点において。中世のキリスト教世界では、教会の教えと恵みが、何にもまして重要なものであり、信じ従うべきものとされていた。そして、教皇の権威が、それらを支える最終的な拠り所であった。しかし、ルターが主張するように、すべては聖書の言葉に寄らねばならないとしたら、どうなるか。教会も、教皇も、聖書の言葉に従わなくてはならないことになる。一人ひとりが聖書の言葉と向き合い、ただ神の義を受け入れることでのみ救われるのだとしたら、教会の教えや恵みは何も意味をもたなくなるどころか、神に背くものになってしまう。ルターの主張は、教皇を頂点に戴くローマ・カトリック教会というシステムにとって、自らの存在を根底から揺るがしかねない主張だったのである。

 当初カエタンは、教皇から「父のごとく接し諭すように」と指示されていたこともあって、なんとかルターを説き伏せ、提題を撤回させようとする。しかしルターは断固拒否。怒ったカエタンは「ここから立ち去れ。二度と私の前に現われるな」と言い放つ。異端の決定を下すまでには至らなかったが、これでルターは退路を断たれる。

 さらに次の年、1519年に公開神学討論会(「ライプツィヒ討論」)が開かれる。「アウグスブルク審問」の後、教皇庁としては、ルターに異端者の決定を下したかった。しかし、そのためには公の場でその主張を完全に否定し、ルターが紛う方なき異端者であることを世に知らしめる必要がある。その意を受けて登場したのがインゴルシュタット大学の神学者ヨハン・エック。後にルターが「キリストと真理との特別な敵」と詠んで激しく非難することになる人物。ライプツィヒ討論は約2週間にわたって行われた。討論の名手として知られていたエックは、巧みにルターを誘導しながら、「教皇の権威を認めないというならば、あなたはヤン・フスと同じではないか」と非難。ヤン・フスとは、その約100年前、教皇の権威を否定して火刑に処せられたボヘミアの神学者。ルターは、「ヤン・フスの教えの中にも福音的なものが含まれる」と答えてしまう。エックはその一言を逃さなかった。「ならば、かつてコンスタンツ公会議において、教会がヤン・フスを異端者として裁いたのはあやまりであったのか」と追い打ちをかける。その問いに対して、ルターははっきりこう言った。「教会の歴史の中で、教皇も公会議も誤りを犯すことがあった」。当時、教皇と公会議は決して誤りを犯さないと考えられていた。こうして、ルターに異端者の烙印が押され、破門が現実的なものになってくる。

「1519年7月 ライプツィヒ討論」 ヨハネス・エックとルターの論争

「1518年10月 アウグスブルク審問」 ルターを審問する教皇特使カエタン枢機卿

杭にかけられて焼かれるフス

ヨハン・エック

ラファエロ「レオ10世」ウフィツィ美術館

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