「日本の夏」12 「五月雨」②「黴雨(ばいう)」
五月雨(梅雨)は稲の栽培にとっては必要不可欠だが、多くの悪影響ももたらす。
「五月雨の雲吹きおとせ大井川」芭蕉
これは、芭蕉が東海道の島田宿で4日間の「川止め」に遭ったときに詠んだ句。江戸時代、河川が増水した時、「川越」(かわごし)を禁じた事を「川止め」と言った。川ごとに規定があり、大井川では普段の水位2尺5寸(約76cm)を基準とし、増水2尺(約60cm)以上になると川越を禁止。川止めになると両岸の宿場は旅人で満員となり、旅人は旅費がかさんでいった。雨が上がるのを待ち望む芭蕉の思いがあふれた一句。
「五月雨や色紙へぎたる壁の色」芭蕉
雨が降り続いて、壁に貼った色紙がはがれている。その壁の色が何とも物憂い気分にさせる。
「さみだれや蚕煩(わずら)ふ桑の畑」芭蕉
梅雨の長雨で病気になった蚕が桑畑に捨てられている。命を育てるとともに、命を蝕む五月雨。漢字表記「梅雨」の語源は、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説が一般的。しかし、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説もある。梅雨の時期は、自律神経に影響する低気圧が頻繁に発生。ビタミンD不足を引き起こすような曇天の日も多い。梅雨の時期に病気になりやすいのは人間だけではない。そしてそんな梅雨は年々降り続くことですべての物を朽ちさせる。
「五月雨の降(ふり)残してや光堂」芭蕉
すべての物を朽ちさせてきた五月雨も、この光堂だけは降り残したのだろうか。その名のように、数百年を経た今も光り輝いているよ、と「光堂」(平泉中尊寺金色堂)を詠んでいる。
しとしと降る雨は、穏やかだがからだにまとわりついて外出をおっくうにさせる。
「ひたひたと着物身につく五月雨」高桑闌更(らんこう)
そして、時には視界がきかないほど激しい土砂降りになることもある。
「空も地もひとつになりぬ五月雨」杉山杉風
そんな激しい雨も蕪村が詠むと絵になる。
「うきくさも沈むばかりよ五月雨」蕪村
しかし、川の急激な増水はいつの時代も変わらず恐怖だ。
「さみだれや名もなき川のおそろしき」蕪村
梅雨はおよそ50日間続くとはいえ、この季節は毎日雨が降るわけではない。6月7月の実際の月別降水日数は、平均12.6日間。そしてこれらの日でも必ずしも一日中ずっと雨が降っているわけではない。6月の降水量は145㎜だが、8月と9月には200㎜を超える降水量になる。これらの月に台風が頻繁に到来するためだ。いずれにせよ、長雨の時期につかの間の晴れ間はうれしいものだ。
「五月雨やある夜ひそかに松の月」大島蓼太(りょうた)
日本の気象用語に「五月(さつき)晴れ」という言葉がある。青空が広がり心地よく感じられる5月の晴れた日を意味する言葉として使われているが、もともとは旧暦 5月が梅雨にあたることから,梅雨の晴れ間の意味で,「梅雨晴」(つゆばれ)とも呼ばれた。
「梅雨晴れの夕茜してすぐ消えし」高浜虚子
梅雨の珍しい晴れ間に夕焼けが見えて嬉しくなる。しかし、梅雨晴れはほんの一時。夕焼けはすぐ消えてしまった。梅雨晴れへの思いが伝わってくる一句。
緊急事態宣言が解除され、外出制限がなくなったからいいようなものの、ずっと続いていたらこんな句を病床で詠んだ子規の気持ちになっていたことだろう。
「五月雨や上野の山も見あきたり」正岡子規
雨に煙るばかりの殺伐とした景色も、晴れていれば、命の息づく動きが感じられるのだろうが。
広重「木曾街道六拾九次之内 須原」
突然の夕立の中、後景には慌てて街道を走る旅人、前景には杉木立の間にある辻堂に逃げ込む人々が描かれている。辻堂の中には、編笠を被った虚無僧、祈る六部(ろくぶ。六十六部衆を縮めた言葉で、書き写した般若経を担いで全国にある六十六の札所を巡礼する者)柱に何かを書き記す巡礼者などがおり、外には相棒と走る駕籠舁、シルエットの馬子などがいて、街道を旅する代表的人々の活写となっている。
二代広重「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」
『名所江戸百景』の中で唯一、二代広重の作品であることが明示された作品。赤坂溜池の南側一帯は、池の土手を補強するためもあって、多くの桐が植えられたため「桐畑」と呼ばれた。この桐畑の雨の夕景が詩情豊かに表現された作品。
一景「東京名所四十八景 堀切しよふ婦五月雨」
歌麿「菖蒲園の美女」
豊国「皐月雨の図」
軒菖蒲の見える軒先の縁の柱にもたれ、五月雨の降りそそぐ庭に面して、しどけない姿の美人が文を読む風情ある構図。庭の躊躊も、季節感を溢れさせている。
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