「日本の夏」11 「五月雨」①芭蕉と蕪村
旧暦の夏は4~6月。そのうち5月が梅雨の時期。この梅雨に降り続く長い雨が「五月雨」(さみだれ)。
「五月雨をあつめて早し最上川」芭蕉
「五月雨」を詠んだ句と言えば芭蕉のこの句がすぐに浮かぶ。『奥の細道』の旅で詠まれた。平泉を訪れたあと、芭蕉は現在の山形県に入る。最上川を下るため、大石田という港で川を下るのに最適な天候を待っていたところ、地元の人に頼まれて俳諧の会を開くことになる。そのとき、芭蕉はこう詠んだ。
「五月雨をあつめて涼し最上川」
涼しい風を運びながら穏やかに流れる最上川の様子が表現されている。しかしその後、実際に最上川を船で下ったところ、激流であるうえに難所続きで大変な目に遭い、「涼し」を「早し」に変えてしまう。最上川は日本三大急流(あとは富士川と球磨川)のひとつ。このほうが川の特徴をよくとらえており、五月雨の降り注ぐ満々たる濁流の物凄さが伝わってくる。
蕪村にも五月雨と大河を詠んだ句がある。
「五月雨や大河を前に家二軒」蕪村
正岡子規は、当時所属・担当していた『新聞日本』紙上の文芸欄で、この句と芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」を比較し、蕪村に軍配を上げて絶賛し世間に衝撃を与えた。その様子が『坂の上の雲』(司馬遼太郎)にこう描かれている。
「日清戦争がはじまろうとしているころ、子規は百十年前、貧窮のうちに死んだこの天明期の俳人の再評価に熱中していた。
この当時、蕪村はほとんどうずもれてしまっている存在だったが、子規は蕪村の句を古本屋からさがしだしてきては読むうち、
―――芭蕉以後最大の存在ではあるまいか。
と思うようになり、やがては芭蕉以上であるというように評価が成長した。
以下はちょっとのちのことになるが、子規はかねて芭蕉の句の中で、
五月雨をあつめて早し最上川
という句を古今有数の傑作とおもっていたが、よくよく考えてみると「集めて」ということばがいわば巧みすぎて子規にはおもしろくない。巧みすぎることを臭味と感ずるまでに子規の句境は熟しはじめているのだが、それはともかくとして子規はおなじ五月雨を詠んだ蕪村の句をおもわざるをえない。
五月雨や大河を前に家二軒
というほうがはるかに絵画的実感があるうえに、刻々増水してゆく大河という自然の威力をことさらに威力めかしくうたうことをせず、ほんのひと筆のあわい墨絵の情景にしてしまい、しかもその家二軒の心もとなさをそこはかとなく出している。この二句をならべればはるかに蕪村がまさる、と子規はおもうのである。子規はこの前後から蕪村の精神をかかげることによって、片や芭蕉を宗祖としてすでに衰弱しきっている俳壇に新風をまきおこそうとした。」
どちらが勝っているとかではなく、長谷川櫂も言うように両者の資質の違いと言った方が当たっているように思うのだが。
「芭蕉は舟に乗って激流に乗り出し、大河と一体になっています。その結果、句には躍動感があふれています。一方、蕪村は大河の岸辺から、というよりは空中の一点から大河と二軒の家を眺めています。梅雨の大河を詠んでいるのですが、ここにあるのはあくまで静かな一枚の絵です。芭蕉の句と比べると、動と静のちがいがあります。」(長谷川櫂)
小林清親「箱根三枝橋 雨」
伊東深水「瀬田の唐橋」
広重「六十余州名所図会 出羽 最上川月山遠望」
最上川
春信「風流四季哥仙 五月雨」 湯屋の入口
(添えられている和歌)
「ふりすさふ とたへはあれと 五月雨の 雲ははれ間も 見へぬ空かな」
春信「雨中縁先傘さし菖蒲折二美人」
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