「感染症と人間の物語」16 「コロンブス交換」①天然痘

 1492年のコロンブスによる新大陸到達以降、ヨーロッパ、アジアなど旧大陸と南北アメリカの新大陸との間で食料となる植物など様々な交流があったが、米国の歴史学者アルフレッド・W・クロスビーはこれを「コロンブス交換」と名付けた。現在のヨーロッパ料理になくてはならないトマト、ジャガイモ、トウモロコシなどをはじめ、パイナップル、落花生、唐辛子など多くの作物あるいは嗜好品のタバコなどは、大航海時代以前にはヨーロッパには存在しなかった。これらはすべて新大陸からもたらされたものであった。一方、ヨーロッパから新大陸には小麦などが持ち込まれたが、同時に持ち込まれた天然痘、インフルエンザなどの病原菌により多くの先住民が死亡し、これがインカなどの帝国の滅亡に繋がったとも言われている。どういうことか?

 1532年、インカ帝国はわずか168人のスペイン人たちの策略によって、あっけなく滅亡させられたが、インカ兵たちはインカ王が殺されてからも何度も反乱を起こした。スペイン人の弾圧、虐待がきわめて過酷だったからだ。スペイン人の中からさえ彼らの行為を非難する人物が現れた。その代表がスペイン人聖職者ラス・カサス(1484年~1566年)である。

「スペイン人たちはインディオたちから金を強奪したのち、彼らを大きな家に閉じ込めた。アリの這い出る隙間もないぐらい大勢のインディオを家の中に入れると、彼らはその家に火をつけ、全員を焼き殺した。」

「私は数えるのも面倒なほど多くの場所でスペイン人たちが手当たり次第にただ気まぐれからインディオたちの男や女の手と鼻と耳をそぎ落としているのを目の前で見た。また、私はスペイン人たちが数匹の犬をけしかけてインディオたちをずたずたにさせようとしているのを見たし、実際に大勢のインディオが犬に苦しめられているのも目撃した」(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)

 ラス・カサスによれば、征服後「金があるという噂を耳にして4000人か5000人のスペイン人がペルーへ押し寄せ」、征服から10年の間に400万人以上の先住民を虐殺したという。

 しかし、実際には先住民を死に至らしめたのは虐殺そのものより、スペイン人が持ち込んだ疫病の影響の方が大きかった。とくに、天然痘、はしか、インフルエンザなどの疫病が抵抗力を全く持たない先住民族をおそったのである。この疫病は、まもなくメキシコでも流行。メキシコを征服するために進軍してきたコルテス一行によるものであった。スペインのフランシスコ会修道士ベルナルディーノ・デ・サアグン(1499年?~1590年。メキシコで60年以上にわたってキリスト教の宣教活動を行い、ナワトル語とスペイン語の2言語による百科全書的な絵文書『ヌエバ・エスパーニャ概史』を編纂)が貴重な記録を残している。

「スペイン人がわれわれに対して戦いをしかける前に、疫病がまず広がった。・・・恐ろしい災厄であった。多数の者が死んだ。もはや歩くこともできず、ただ横になり、寝台に寝るばかりであった。・・・できものが体を覆い、包み、たくさんの人が死亡した。そして多くの人が飢えに苦しみ、餓死者が出た。誰も他人の世話をせず、誰もが人のことをかまわなかった。」

 これこそ、スペイン軍の一人の奴隷がメキシコにもたらした天然痘の流行のせいであった。このような疫病の影響でアステカ軍の兵の士気は低下し、スペイン人たちによる征服を容易なものにした。こうして、2000万人だったメキシコの人口は、天然痘の流行によって1618年には160万人にまで激減したことが知られている。また、ペルーの先住民人口は、コロンブス以前の900万から1570年までに130万に減ったと推定されている。

 1500年当時の世界の人口は約4億、このうちの8000万~1億が南北アメリカに住んでいたとされる。しかし、その世紀の半ばには1000万しか残っていなかった。これほどの人口の激減は歴史的に例を見ないほどの大惨事であった。

サアグン『フィレンツェ絵文書』「天然痘に倒れたメキシコの先住民たち」

テオドール・デ・ブライ「『大航海』(1593年)疫病に苦しむ先住民

エマーブル・ポール・クタン「フランシスコ・ピサロ」ヴェルサイユ宮殿

「エルナン・コルテス」王立サン・フェルナンド美術アカデミー

「ラス・カサス」インディアス総合古文書館 セビリア

ワマン・ポマの絵文書「先住民のインディオを虐殺するスペイン人兵士」

テオドール・ド・ブライ『大航海(1596)』の犬に襲われたインディアン

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