「感染症と人間の物語」15 ルネサンスと感染症(5)レオナルド・ダ・ヴィンチ②理想都市

 1484年から翌年にかけてミラノを襲ったペスト禍は、前世紀のフィレンツェ(ボッカチオが『デカメロン』で描写)でのそれを想起させるに十分な悲惨さであった。人びとは、各自で墓穴用の大きな濠を掘り、そこに一日に何回となく運び込まれる遺体を埋めた。あまりの遺体の頻出から街路上にもそれが積み上げられ、夏の暑い日には腐乱した遺体の鼻をつく異臭に悩まされたりした。だれもがつねに死と隣り合わせであり、助かるにはやはりボッカチオのように清浄な高所へ逃げて、この疫病が自然消滅するまでそこに閉じ籠るしかない。さすがのイル・モーロも、一時ミラノから逃げ出したようである(権力者は、適所にヴィラやパラッツォを所有)。そして、占星術師(彼は占星術に非常に傾倒していた)の助言に従って、生ものや日持ちの悪い食べ物はいっさい口にしない。また、外国の使節や緊急の面会者でも、かなりの距離を置いてしか会わないし、自分宛ての書簡は、強い香水で″浄化″してからでないと決して開封しないほどであった。

 1482年からミラノに滞在したレオナルドは、このミラノでのペストの惨禍を実見したであろうが、奇妙にも何ひとつ具体的には語っていない。彼もまた、その期間いずれかに逃避したのであろうか。そのことは、今日確かめられない。しかし、ミラノの市民たちのペスト禍対策への苦慮と難渋は、やがて彼をして、あるべき公衆衛生や新しい都市計画などの諸問題について、それらの解決に自発的に立ち向かわせることになる。ミラノの痛ましい事態を契機として、レオナルドによる理想的な都市構想が浮上してきたようである。

 レオナルドは、当時知られていた衛生学と公衆衛生学の方法を研究したうえで、ミラノの再建計画を構築するために多くの時間を費やす。彼の計画によれば、二層からなる広い道路が必要で、上の道路は歩行者用、下の方は乗り物用だった。それぞれの道の両側にはアーケードがつき、上下は階段で結ばれていた。道路網と運河網は、物品が船で下層階のアーケードの店や建物に運搬できるように計画された。

 新しい都市は、雨で濁ることがない水路として知られるティチーノ川のような大きな河か、海の近くに建設されることになっていた。この河は、安定した浄水源となるだけでなく、ロンバルディア平原のための灌漑用の水源ともなるはずだった。人口は川沿いの十の町に三万人ずつ等分する計画だったが、その目的をレオナルドは手記の中でこう記している。

「ヤギの群れのように混みあって暮らし、空気を汚臭で満たし、ペストと死の種を広めている大勢の人々を分ける」

 レオナルドに感心させられるのは、その関心が大きな構造物のみに向けられたのではなかったこと。衛生面と快適性の合理的な追及のために、しばしばもっとも些細で看過されやすいものにまで注意を向けている。都市生活における汚物の排出や異臭の追放などにも心を砕き、独特の考案をしている。例えば、便所の臭気の防止方法。便所の座部は用便時にのみ壁から取り出され、用便後は錘仕掛けで再び壁の中へ戻る。用便中の便所の口は直接排水溝へ通じており、また座部の蓋は全面に小さな孔がたくさん開けてあって、臭気を発散させるようになっている、など。何とモダンな発想か!さらに、アトランティコ手稿には、風のために煙が煙突を通って部屋に逆流するのを防ぐために、煙突の上部に風とともに回転するいわばファンが取り付けられ、しかもそれを下から紐で上下に引いて調節できるような装置が図示されている。壮大なスケールでユートピア的な都市計画を意欲的に進めながら、同時に、ふだん気づかないような日常生活の細部まで見せている行き届いた配慮。これこそ、ほかの関心事の場合と同様、レオナルドの特徴的なプログラムの進め方である。

 しかし、このレオナルドの理想都市の実現は、強力な権限と莫大な財力が必要であるし、国家的事業として推進されなければ不可能である。その草稿が成文化されて、イル・モーロへ提出されたかどうかは判然としない。レオナルドの理想都市プランは、残念ながらついに陽の目を見ることはなかった。都市は衛生設備と公衆衛生の原則に基づいて建設されなければならないというレオナルドの考えが理解されるには数世紀を待たなければならなかった。

理想都市の再現模型  ミラノの国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学博物館 

パリ手稿(1487~90年)B 紙葉16表

パリ手稿(1487~90年)B 紙葉36表

レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」チャルトリスキ美術館

レオナルド・ダ・ヴィンチ像 スカラ広場 ミラノ

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