「感染症と人間の物語」14 ルネサンスと感染症(4)レオナルド・ダ・ヴィンチ①『岩窟の聖母』
30歳のレオナルドは、1482年フィレンツェを離れミラノに移住。はっきりとした理由はわかっていない。当時のミラノは成長途上にある都市だった。人口はフィレンツェよりいくぶん多い8万。古いタイプの封建都市国家で、法治制度よりも強力な軍事力に権力基盤を置く君主一族(ヴィスコンティ家→スフォルツァ家)によって支配されていた。スフォルツァ家はまったくの新興貴族。1450年、それまでの統治者ヴィスコンティ家を継承し、自らをミラノ公と宣言したのがフランチェスコ・スフォルツァ。レオナルドが仕えることになるルドヴィコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)の父である。イル・モーロはスフォルツァ家のミラノ公としては2代目に過ぎない。しかし、このことは今や放浪の芸術家となったレオナルドにとっては好都合だった。成り上がりの野心家は常に貪欲なパトロンであるからだ。
「ルドヴィコの宮廷は芸術家だらけで、・・・ここには蜜蜂が蜜に惹かれるようにあらゆる学者がやって来る。」(宮廷詩人ベッリンチョーニ)
レオナルドはミラノ宮廷に赴くにあたりイル・モーロに自薦状を送る。
「高名なる閣下。私は兵器の名工や考案者として自任しているすべての人々の試みを観察し吟味いたしましたところ、彼らの発明や発明品がふつうに使われているものと少しも異なっていないと考えられました。従いまして誰に気兼ねすることなく、閣下のお耳に私の秘密の策をあえてお教えしたいと存じます。」
そして、その具体的内容を13点あげている。
①様々なタイプの橋 敵の橋を破壊する方法 ②敵陣包囲の際、水濠から水を抜く方法
③敵の城郭や要塞を破壊する方法 ④携帯、運搬が容易な大砲 ⑤音を立てずに秘密の坑道を作る方法
⑥破壊不可能な戦車 ⑦美しく有用な大砲、火器類の製造 ⑧投石機その他の兵器類の製造
⑨いかなる大砲、火薬に耐えうる船の建造 ⑩他に類を見ない建築、水利設備の建設
⑪大理石、青銅、粘土による彫像の制作 ⑫絵画の制作 ⑬青銅の馬像の制作
①から⑨はいずれも軍事兵器類であり、レオナルドは軍事兵器類の技師・発明家としての才能を強調してミラノ宮廷に自分を売り込んでいる。これには、1482年にミラノがフェッラーラをめぐり、ヴェネツィアと開始した戦争が関わっていると思われる。当時のミラノにあっては、戦争を遂行するさいの戦略が、武器の製造や売買と同じくらい重要であったからだ。
しかし、戦争以上にミラノにとって大きな影響をもたらしたのは1484年から85年のペスト禍。2年間で5万人以上が落命するという未曽有の惨禍だった。この時、人々の絶大な信仰を集め、熱烈な祈願の対象となった祭壇画がある。サン・フランチェスコ・グランデ教会内の「無原罪の御宿り」信心会礼拝堂の『岩窟の聖母』。レオナルドがミラノに来て最初に描いた作品だ。登場人物は、聖母マリア、幼児キリスト、幼児ヨハネ、天使の4人。場所は、ヘロデ王による「罪なき子の虐殺」から逃れるために身を潜めた洞窟(聖書にこの記述はない)。きわめて複雑な構造をした、謎と暗示に満ちた作品だが、レオナルドは、手のしぐさで物語を見事に展開させている。
「その静寂な岩窟には、ヘロデの魔の手を逃れて生き延びた人びと― いわゆる聖家族 ―が穏やかに座している。そして、その場の情景は、また、ペストの魔の手を逃れて生き延びたいという人びとの願望をもよく掬い上げたものといえる。人びとは、猖獗を極めるペストに対して、聖母マリアに「疫病の猛威が収まるよう御子にとりなし給え」と懇願せざるをえないが、ここでのマリアはそれに応えるかのように、右手は御子を礼拝する幼児ヨハネの背を支えながら、左手で幼児キリストにとりなしているように見受けられる。さらに、観者の方へ顔を向けながら、右人差指で幼児の洗礼者を指さす天使は、「ヨハネのように神の子を礼拝せよ。さすれば安らぎがくる」と信者へ具体的に示唆し、聖児もそれを受納するしぐさのようである。」(久保尋二『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社)
この祭壇画のある礼拝堂でのミサ挙行後、霊験あらたかというか、1486年以降1524年まで、ミラノではこれといった大きなペストの災厄は聞かれなかった。1524年と1576年の二度のミラノにおけるペスト禍において、この実績がまるで神の啓示のごとく想起されたのも当然のことであろう。そして『岩窟の聖母』に対して盛大な悪疫退散のミサが執り行われ、それにより二回とも悪疫の蔓延を鎮める効験があった旨の記録があるという。
16世紀 ミラノ レオナルドの時代この城壁内に8万人が住んでいたといわれる
レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」ルーヴル美術館
二人の幼子の区別が重要。マリアの右にいるのが洗礼者ヨハネで彼が祈りを捧げている相手がイエス。祝福のポーズをしている。
フランチェスコ・メルツィ「レオナルド・ダ・ヴィンチ」ロイヤルコレクション
ジョヴァンニ・アンブロジウス・デ・プレディス「ルドヴィコ・スフォルツァ」
ジュゼッペ・リッチ「聖母マリアにローマでのペスト終息を願う教皇グレゴリウス1世」サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)
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