夏目漱石と明治国家19 『門』(3)

 宗助と御米の「過(あやまち)」は安井の前途にどのような影響を及ぼしたか?

「二人は安井もまた半途で学校を退いたという消息を耳にした。彼らはもとより安井の前途を傷けた原因をなしたに違なかった。次に安井が郷里に帰ったという噂を聞いた。次に病気に罹って家に寝ているという報しらせを得た。二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。最後に安井が満洲に行ったと云う音信(たより)が来た。宗助は腹の中で、病気はもう癒(なお)ったのだろうかと思った。または満洲行の方が嘘ではなかろうかと考えた。安井は身体から云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。宗助はできるだけ手を回して、事の真疑を探った。そうして、或る関係から、安井がたしかに奉天にいる事を確め得た。同時に彼の健康で、活溌で、多忙である事も確め得た。」

 ほっとした夫婦は、それ以後安井の名を口にするのを避けるようになる。「彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆りやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。」

 そして「彼らの生活は淋(さみ)しいなりに落ちついて来た。その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。」しかし、ある日事態は一変する。

「二三年の月日でようやく癒(なお)りかけた創口(きずぐち)が、急に疼き始めた。疼くに伴つれて熱(ほて)って来た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。」

何が起きたのか?偶然、宗助は大家の坂井から満州へ渡った弟が東京に戻っていて明後日友人と一緒に食事に来るという話を耳にする。そして、その席に招かれたのだ。坂井の弟の友人とは安井だった。安井がどのような人物になったかを思い描く宗助。会いたくはない。しかし、相手に気づかれずに「その後どんなに変化したろうと」一目彼の様子を眺めたい。自分が負った責任を軽くするため、「自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉(いしゃ)を得たかった」からだ。

「彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎてけちに見えた。彼は胸を抑えつける一種の圧迫の下に、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。その時の彼はひとの事を考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作りかえなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。」

 御米と寄席に行く、ひとりで牛肉店で酒を飲む。しかし不安は消えない。役所へ出ても仕事が手につかない。宗助はどうしたか?救いを座禅に求め、鎌倉の禅寺の山門をくぐる。

「彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返す後すぐ消えて行った。つかんだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。

 宗教と関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起した。・・・彼は悟という美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。」

 しかし、与えられた公案(「父母未生以前本来の面目」)に宗助が出した答えも、こう言われてしまう。

「『もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ』とたちまち云われた。『そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える』」

 安井のことも頭を離れない。

「こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない。ゆっくり構えて、御米にでも知れるとまた心配がふえるだけだと思った。」

 『法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます』と言われても「宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働をあえてするに適しない事を深く悲しんだ」。結局「目に立つほどの新生面を開く機会」のないまま宗助は山を去る。

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」

「円覚寺 惣門」   宗助が参禅 かつて漱石自身も訪れた

「円覚寺 惣門」  

『門』執筆の頃の漱石

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