夏目漱石と明治国家18 『門』(2)

 御米は安静の三週間が過ぎ、身体がすっきりすると易者の門をくぐる。「自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうか」を確かめるためだ。その時、易者にこんなことを告げられる。

「易者は・・・終りに御米の顔をつくづく眺めた末、

『あなたには子供はできません』と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛んだり砕いたりした。それから顔を上げて、

『なぜでしょう』と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ

『あなたは人に対してすまない事をした覚がある。その罪が祟っているから、子供はけっして育たない』と云い切った。御米はこの一言(いちげん)に心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなり家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。」

 「人に対してすまない事をした」とはどんなことか?この直後に、ようやくその内容が明かされる。それは、宗助を大学から去らせた事、東京の家に帰れなかった事、宗助夫婦を好い事を予期する権利のない人間にさせている事の理由でもある。御米は宗助の学生時代の親友安井が「僕の妹」と紹介した安井の恋人だった。宗助は次第に御米とも馴染み、三人でよく遊んだ。そこからどのようにして御米と宗助が結ばれたかを漱石は抽象的にしか描かない。

「事は冬の下から春が頭を擡(もた)げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色をかえる頃に終った。すべてが生死(しょうし)の戦であった。青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。

 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負(しょわ)した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女(なんにょ)

として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛(きまぐれ)に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽(おとしあな)の中に突き落したのを無念に思った。

 曝露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこにほのおに似た烙印(やきいん)を受けた。そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹(あと)を留めた。

 これが宗助と御米の過去であった。」

 同じ三角関係でも、宗助、安井、御米の関係は『それから』の代助、平岡、三千代のそれとは異なる。宗助は同棲関係の安井、御米からの略奪愛だが、代助が奪ったのは人妻の三千代だった(『こころ』の先生、K、お嬢さんの関係の方が近い)。代助と宗助のキャラクターも異なる。代助は「高等遊民」で職業に就くこと自体を拒否していたが、宗助は当時の一般的な大学生に近い。

「宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引いている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対する謀(はかりごと)を忽(ゆる)がせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然(はっきり)と心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。」

 こんな宗助の人生は大きく変わった。では安井はどうなったか?

1910年(明治43年)  新橋より銀座通りを望む

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