夏目漱石と明治国家20 『門』(4)
10日間の鎌倉の禅寺での修業生活で、「弱々しい自分を救う」という「はかない望」はかなえられなかった。「安心(あんじん)とか立命とかいう境地に、座禅の力で達する事」はかなわなかった。それでも新しい発見がなかったわけではない。身の回りの世話をしてくれた若い僧侶宜道(ぎどう)から「読書程修業の妨(さまたげ)になるものは無い」と言われ、こんなことを思う。
「宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若(なまわか)い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨(しょうま)し尽していた。彼は平凡を分として、今日まで生きて来た。聞達(ぶんたつ。有名になること)ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。」
確かに「自尊心を根絶するほどの発見」だったかもしれないが、「自意識」から解放されたわけではない。他人を信頼し、自分の思いをストレートにさらけ出せるようになったわけではない。宗助は、御米に仕事を休んで鎌倉の禅寺にこもる理由を伝えていなかったが、山を去って帰宅しても大きな変化はない。安井の消息が気にかかっても「家主の宅へ出向いて、それを聞きただす勇気を有たなかった。間接にそれを御米に問うことはなおできなかった」。それでも安井のことが頭を離れない。
「宗助はその夜床の中へ入って、明日こそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞き糺(ただ)して、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。」
次の日の夜、宗助は坂井の家に出かける。そして坂井の弟と一緒に安井も四五日前に満州へ帰っていったことを聞かされる。これで安井と遭遇する危険は去った。しかし安心できない。坂井が安井に自分の名前を洩らさなかったかが気になる。
「彼は主人に向って、『あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか』と聞いて見たくて堪らなかった。けれども、それだけはどうしても聞けなかった。」
結局「知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった」。
「彼の頭を掠(かす)めんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。」
何事も起こらなかったが、また何事も解決しなかった。子供の死について易者に告げられた言葉を御米は打ち明けなかったし、宗助は安井と遭遇する不安を御米に打ち明けずに禅寺にこもった。御米もあれこれ詮索せずに『少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊んでくるよ。』と言う宗助に『まあ御金持ね。私も一所に連れて行って頂戴』と言うが、宗助が弁解すると『行ってらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ』と送り出す。こうした二人の関係は何ら変わらない。しかも漱石は、こういう二人の関係、生活を否定的どころか肯定的に描いていない。吉本隆明などは「(御米は)漱石の理想とした女性のひとつのタイプですし、理想とした日常生活だったとおもいます。」(吉本隆明『夏目漱石を読む』)とまで述べている。個に解体された孤独な近代人の関係の在り方を漱石は提示しているのだろう。ところで、小説『門』の冒頭の場面はある秋日和の日曜日の日当たりのいい縁側だが、最後もやはり日曜日。季節は、梅がちらほらと眼に入るようになった頃。宗助は銭湯に出かけ鶯の初音の会話を耳にする。
「『まだ鳴きはじめだから下手だね』
『ええ、まだ充分に舌が回りません』
宗助は家へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子に映る麗(うらら)かな日影をすかして見て、
『本当にありがたいわね。ようやくの事春になって』と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪をきりながら、
『うん、しかしまたじき冬になるよ』と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。」
国芳「夜の梅」
広重「鶯と紅梅」
風光礼讃「梅鶯」
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