夏目漱石と明治国家17 『門』(1)
『三四郎』、『それから』、『門』で描かれるのは、主人公の大学時代、卒業後、結婚後だが、人物像は共通点はあるものの同一ではない。主人公は野中宗助とその妻御米(およね)。二人は宗助が京都帝国大学に在学中に結婚。その経緯は少しずつ明らかになっていく。新聞小説の性格上、読者に興味を持ち続けさせる趣向だろう。
「二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家へも帰れない事になった。」
大学二年の時に、宗助に大学を去らなければならなくさせた出来事が起きたらしいことがわかる。東京の家に帰れないのは「宗助はあんな事をして廃嫡にまでされかかった奴」という一節から、親に勘当されたことをうかがわせる。そして、それは御米にも関係しているらしい。だから、二人は「好い事を予期する権利のない人間」なのだ。
「夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖(だん)を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
『でも仕方がないわ』と云った。宗助は御米に、
『まあ我慢するさ』と云った。
二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
『そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから』と夫を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻(さい)の口をかりて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
『我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか』と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤(つぐ)んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達のこしらえた、過去という暗い大きな窖(あな)の中に落ちている。
彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹(とまつ)した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦らめて、ただ二人手を携えて行く気になった。」
二人に子供はいない。そのことについても最初はこう描かれる。
「『何だって、あんなに笑うんだい』と夫が聞いた。けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中をのぞ
いていた。
『あなたがあんな玩具を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に』
宗助は意にも留めないように、軽く『そうか』と云ったが、後からゆっくり、
『これでも元は子供があったんだがね』と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、なまぬるい眼を挙げて細君を見た。御米はぴたりと黙ってしまった。」
物語の後半に入って、「子供に関する夫婦の過去」が語られる。御米は三度懐妊している。しかし、流産、生後1週間で死亡、死産。三度目は臍帯(さいたい)が胎児の頸に絡んでの窒息死。この時の御米の様子はこう描かれる。
「彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇(くらやみ)と明海(あかるみ)の途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己(おのれ)をみなさない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。」
韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代)
伊藤博文 1909年
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