夏目漱石と明治国家16 『それから』(6)代助と三千代③
代助は父と会い、父が進める縁談を断る。「己(おれ)の方でも、もう御前の世話はせんから」と言われる代助。覚悟していたとはいえ、それは怖ろしい結果だった。代助は「自己が自己に自然な因果を発展させながら、その因果の重みを脊中にしょって、高い絶壁の端まで押し出された様な心持」になる。父からの援助が途絶える以上、何か職業を求めなければならない。
「彼は今日まで如何なる職業にも興味をもっていなかった結果として、如何なる職業を想い浮べてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。・・・凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼のもっとも苦痛とする所であった。・・・自分の心の状態が如何に落魄(らくはく)するだろうと考えて、ぞっと身振(みぶるい)をした。」
そんな状態に三千代を引き込むことになる現実を想像し自失する代助。そんな自分を「己を挙げて信頼している」三千代。「愛憐の情と気の毒の念」に堪えない代助は三千代を呼んで、自分が「頼りにならない男」であること、「半人前にも慣れない」を告げ詫びる。二人のやり取り。
「『詫まるなんて』と三千代は声をふるわしながら遮(さえぎ)った。「私が源因(もと)でそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」
三千代は声を立てて泣いた。代助は慰撫(なだ)める様に、
『じゃ我慢しますか』と聞いた。
『我慢はしません。当り前ですもの』
『これから先まだ変化がありますよ』
『ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの』
代助は慄然(りつぜん)としておののいた。
『貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか』と聞いた。
『希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ』
『漂泊――』
『漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ』
代助は又ぞっとした。
『このままでは』
『このままでも構わないわ』
『平岡君は全く気が付いていない様ですか』
『気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だっていつ殺されたって好いんですもの』
『そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない』
『だって、放って置いたって、永く生きられる身体じゃないじゃありませんか』」
代助は平岡と会って「僕は三千代さんを愛している」、「三千代さんをくれないか」と伝える。病気が回復したら「引き渡す」と答える平岡。その平岡は事の経過を代助の父に手紙で伝える。その手紙を携えて兄が代助のもとにやって来る。「馬鹿な事」、「不始末」をしでかした代助を罵倒する兄。
「御前は平生からよく分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで交際
(つきあ)っていた。然し今度と云う今度は、全く分らない人間だと、おれも諦らめてしまった。世の中に分らない人間程危険なものはない。何をするんだか、何を考えているんだか安心が出来ない。御前はそれが自分の勝手だからよかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ。御前だって家族の名誉と云う観念はもっているだろう」
その時の代助の心境。
「兄の言葉は、代助の耳をかすめて外へこぼれた。彼はただ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻(べんたつ)を蒙(こうむ)る程動揺してはいなかった。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得ようと云う芝居気はもとより起らなかった。彼は彼の頭のうちに、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。彼はそれで満足であった。その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。三千代以外には、父も兄も社会も人間もことごとく敵であった。彼等は赫々(かくかく)たる炎火のうちに、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、このほのおの風に早く己れを焼き尽すのを、この上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかった。重い頭を支えて石の様に動かなかった。」
こんな代助と三千代の「それから」は『それから』には描かれない。『それから』は、代助が「門野さん。ぼくは一寸職業を探して来る」と言って出かけていく場面で終わっている。二人の「それから」は、次の小説『門』で描かれる。
映画『それから』 家族から絶縁される代助。映画の描き方は小説とは異なっている。
映画『それから』 「三千代さんをくれないか」と言う代助
映画『それから』 最後のシーン
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