夏目漱石と明治国家15 『それから』(5)代助と三千代③
代助は、結婚が問題の解決にならないことにすぐに思い至る。
「結婚は道徳の形式において、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容に於て、何等の影響を二人の上に及ぼしそうもないと云う考が、段々代助の脳裏に勢力を得て来た。既に平岡に嫁いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、この上自分に既婚者の資格を与えたからと云って、同様の関係が続かない訳には行かない。」
そして縁談を断る決心をし、自分の想いを伝えるべく三千代を呼びにやる。
「『今日始めて自然の昔に帰るんだ』と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、慾得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうしてすべてが幸(ブリス)であった。だから凡てが美しかった。」
しかし、それだけではない。
「やがて、夢から覚めた。この一刻の幸(ブリス)から生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然として、我と吾手を眺めた。爪の甲の底に流れている血潮が、ぶるぶるふるえる様に思われた。」
三千代がやってくる。
「三千代はもとより手紙を見た時から、何事をか予期して来た。その予期のうちには恐れと、喜と、心配とがあった。車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもって漲(みなぎ)っていた。三千代の表情はそこで、はたと留まった。代助の様子は三千代にそれだけの打衝(ショック)を与える程に強烈であった。」
代助は言う。
「『僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです』」
涙を流し、ハンカチで顔を覆う三千代。『あんまりだわ』、『なぜ棄ててしまったんです』、『残酷だわ』と言う三千代。『僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きている事が出来なくなった。』と言う代助。最後に三千代が口にする重い決意。
『仕様がない。覚悟を決めましょう』
じっとしながら、精神の緊張を感じる二人。
「彼等は愛の刑と愛の賚(たまもの)とを同時に享(う)けて、同時に双方を切実に味わった。」
翌日、目覚めたときの代助の心境を漱石はこう描写する。
「会見の翌日彼は永らく手に持っていた賽を思い切って投げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。従って、それを自分の脊に負うて、苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、却って自然と足が前に出る様な気がした。彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。父の後には兄がいた、嫂がいた。これ等と戦った後には平岡がいた。これ等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械の様な社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦う覚悟をした。」
映画『それから』 自分の気持ちを打ち明けるため三千代をよんだ代助
映画『それから』 自分の気持ちを打ち明ける代助
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