夏目漱石と明治国家14 『それから』(4)代助と三千代②
「余りに自然を軽蔑し過ぎた」ため、代助は平岡に三千代を周旋し結婚させてしまった。しかし上京した平岡夫婦と再会した代助が知ったのは、経済的困窮とともに、冷え切った夫婦関係(「平岡は貰うべからざる人を貰い、三千代は嫁ぐべからざる人に嫁いだ」)の現実だった。そして「自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼のために周旋したことを後悔した」。しかし、三千代との関係は一気には進展しない。
「三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらく措(お)くとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着でいる訳には行かなかった。彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は小供を亡くなした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。但し、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みる程大胆ではなかった。彼の愛はそう逆上してはいなかった。・・・彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでいた。」
しかし、会う機会を重ねるにつれ、二人の関係は発展していく。三千代も別れ際に「淋しくっていけないから、また来て頂戴」などという大胆なセリフを吐くようになる。ぼんやりしていた過去の二人の関係も徐々にクリアになっていく。
「代助は二人の過去を順次に遡ぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出さない事はなかった。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた」
この時、代助はどんな気持ちになったか?
「彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼はその重量の為に、足がふらついた。」
そして代助は、平岡と会って三千代や家庭から離れてしまった彼を「元の家庭へ滑り込ませる」計画を実行する。「平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便(たより)に、自分を三千代から永く振り放そうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣った」。しかし失敗。代助の悩みは深まる。
「彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然その反対に出でて、何も知らぬ昔に返るか。どっちかにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた。その他のあらゆる中途半端の方法は、偽(いつわり)に始って、偽に終るより外に道はない。ことごとく社会的に安全であって、ことごとく自己に対して無能無力である。と考えた。
彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考え得られなかった。――醗酵させる事の社会的危険を承知していた。天意にはかなうが、人の掟に背く恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。
彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従う代りに、自己の意志に殉ずる人にならなければ済まなかった。」
まだ代助は、三千代との関係を「自然」の命ずるとおりに発展させる道、「天意」によって醗酵させる道を選択しない。意志に殉じる(=「三千代と永遠の隔離」)ために、「父や嫂(あによめ)から勧められていた結婚に思い至った」。代助に、三千代との関係を「直線的に自然の命ずるとおり発展させる」道を選択させない原因は何か?他人の妻を奪うという反道徳性か?違う。代助の道徳観はこうだ。「人間はある目的をもって、生まれたもの」ではない。「人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない」。そして「自己本来の活動」=「無目的な行為」(歩きたいから歩く、考えたいから考える)を目的として活動する、すなわち「自然」に従って行動するのが、偽りのない点において最も「道徳的」と考える人間である。そんな彼を三千代から振り放そうととして「結婚」の道を考えさせる原因は、「職業」の問題。父親の進める結婚を拒絶すれば、待っているのは父子絶縁、経済的援助の停止。当然、職業につき生活の糧を自らの手で得なければならない。そのことへの不安が「高等遊民」、「職業のために汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えている」代助に重くのしかかってきたのだ。
映画『それから』 代助のもとをおとずれる三千代
映画『それから』 父から結婚をすすめられる代助
映画『それから』 平岡と会って、三千代と平岡の夫婦関係の修復を試みる代助
映画『それから』 「淋しくっていけないから、また来て頂戴」と言う三千代
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