夏目漱石と明治国家12 『それから』(2)代助と平岡
物語は、代助と「中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、1年間というものは、ほとんど兄弟の様に親しく往来した」友人の平岡が転職のため妻とともに京阪地方から東京に戻って来るところから始まる。平岡とのやり取りから、代助の人生観、社会観、労働観がうかがえる。「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」と言った代助の発言からこんな会話が展開される。
「『だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ』
『世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ』
『そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ』
『無論食うに困る様になれば、いつでも降参するさ。然し今日(こんにち)に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据えてぷかぷか烟草を吹かしている。代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。――
『僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寐ている。だから何所に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞きに行く機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。麺麭(パン)に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ』」
銀行に勤めていた平岡は、やがて三千代と結婚し、地方の銀行へ転勤。しかし、仕事上のトラブルに巻き込まれ、借金を重ねたあげく辞職に追い込まれ、東京に逃げ帰ってきた。子供も生まれてすぐに亡くなってしまった。三千代は出産後心臓を患い、それ以後は病弱なままである。平岡はこんな三千代を金の工面のため代助のもとによこすほど困窮している。平岡は、酒を飲みながら自分の気持ちを代助にぶつける。『何故働かない』と言う平岡に代助はこう答える。
「『何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊(こんぱい)と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。』」
高等遊民代助のこの発言に、生活者平岡は当然反論する。
「『そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、そのうちに活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか』」
岡本一平『漱石先生』
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