夏目漱石と明治国家11 『それから』(1)三四郎と代助
『三四郎』(1908年)に続いて1909年6月27日より10月14日まで、東京朝日新聞・大阪朝日新聞に連載されたのが『それから』。予告文にはこうある。
「色々な意味に於て《それから》である。「三四郎」には大学生の事を描(かい)たが、この小説にはそれから先の事を書いたから《それから》である。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、《それから》である。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさきどうなるかは書いてない。此意味に於てもまた《それから》である。」
しかし、好きな女性がほかの男と結婚したこと以外、三四郎と代助には共通点は見られない。主人公長井大助は30歳。大学を卒業しても勤めに出ず、一軒家を借りて、書生の門野と賄いのばあさんの三人で暮らしている。明らかに今のフリーターとは異なる。仕事もしないでどうしてそんな暮らしが可能かというと、資産家の父や兄が生活費を出してくれるから。代助は一日中ぶらぶらしては、本を読んだりし知的に暮らすいわゆる「高等遊民」。漱石の小説では再三登場する。代助の父親は、再三早く定職に就くように催促するがのらりくらりかわす。父や兄について漱石はごく簡単にこう描いている。
「代助の父は長井得といって、御維新のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入って、何かかにかしているうちに、自然と金が貯(たま)って、この十四五年来は大分の財産家になった。
誠吾と云う兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今ではそこで重要な地位を占める様になった。」
ここは注意して読む必要がある。この「戦争」は戊辰戦争。父が薩長側か旧幕府側かどちらだったかは書かれていないが明白。薩長側だ。それは「役人」だったから。旧幕府側の人間が役人にはなれなかった。そして天下り。さらに「この十四五年」とは、作中世界が1909年だから1894年、1895年から1909年。この間にあった大きな出来事は日清戦争(1894年~1895年)と日露戦争(1904年~1905年)。「この十四五年来は大分の財産家になった」とあるのは、政府との癒着で、戦争に絡んで金儲けをした可能性が高い。それをうかがわせるのが「日糖事件の記述」。「砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収した」という事件。この新聞記事を目にして代助はこんなことを考える。
「代助は自分の父と兄の関係している会社に就ては何事も知らなかった。けれども、いつどんな事が起るまいものでもないとは常から考えていた。そうして、父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕だけで、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとは肯(うけがわ)なかった。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与えた事がある。その時ただ貰った地面の御蔭で、今は非常な金満家になったものがある。けれどもこれはむしろ天の与えた偶然である。父と兄の如きは、この自己にのみ幸福なる偶然を、人為的にかつ政略的に、暖室(むろ)を造って、こしらえ上げたんだろうと代助は鑑定していた。」
「高等遊民」が誕生するのは日露戦争以後。戦後の好景気によって急速に富を築いた新興成金の存在が背景にある。代助の父もおそらくそういう存在だった。彼らの子息は、父の資産、遺産で生活する。しかし、「高等遊民」が社会に出てゆかないのは、経済的ゆとりのためだけではない。彼らは、社会的にあくどいこともしながら成り上がった肉親を身近で見てきたため、社会に対する批判の眼が強くなり、実社会に出ることを拒否する。だから、単なる怠け者ではなく、あえて職に就くことを拒否するのだ。だから父から「三十になって遊民として、のらくらしているのは、いかにも不体裁だな」と言われてもこう思う。
「代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。」
足尾銅山暴動事件 1907年 新興成金が生まれる一方でこんな事件も発生した
足尾銅山の炭鉱夫たち
映画『それから』
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