夏目漱石と明治国家10 『三四郎』(10)三四郎の成長③

 三四郎が病気だと聞いて広田先生の見舞いに行った後、原口の家に向かう途中、広田から借りた「ハイドリオタフヒア」(独特の死生観・霊魂の不滅論が展開される)を読みながら自分について考える。

「三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる。目の前には眉を焦がすほどな大きな火が燃えている。その感じが、真の自分である。」

 その時、子どもの葬式に遭遇。考えるのはやはり美禰子のこと。

「ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。三四郎はこの苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶がとれるように思う。苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。」

 三四郎はまっすぐに進む。画家原口の家で、モデルをつとめている美禰子に会って借りていた30円を返すためだ。用があるから帰る、という美禰子に対して以前には考えられない積極的な行動に出る。

「三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回(ひとまわ)り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。」

 それは断られるが、歩きながら美禰子から「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」と聞かれた三四郎はこう答える。「あなたに会いに行ったんです」「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と。しかし美禰子はこたえず、話題は変わる。その時向うから車が駆けて来る。それに乗っていた男と美禰子は去っていく。この男は美禰子の婚約者だった。その後、インフルエンザにかかって寝込んでいた三四郎は、見舞いに来たよし子から美禰子の結婚の話を聞かされる。相手が、野々宮ではなく美禰子の兄の友達であること、そして最初はよし子に結婚を申し込んだ男であることを。

 病気が快復した三四郎は美禰子に30円を返すため会いに出かける。教会の前。金を受け取った後、白いハンカチを取り出し鼻にあてた後、三四郎の顔の前にやる。鋭い香り。ヘリオトロープ。以前、三四郎に勧められて美禰子が買った香水。

「三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎(びん)。四丁目の夕暮。迷羊(ストレイ・シープ)

。迷羊(ストレイ・シープ)。空には高い日が明らかにかかる。

『結婚なさるそうですね』

 美禰子は白いハンケチを袂(たもと)へ落とした。

『御存じなの』と言いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎へひっついてしまった。

 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

『我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり』

 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。」

 三四郎の初恋は終わった。美禰子も野々宮だけでなく、ある時から三四郎に対しても一定の想いは抱いていたようだ。少なくとも、自分の行為が三四郎を振り回したことはわかっていた。それが『我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり』という旧約聖書の一節。それは、三四郎に対してだけでなく、おそらく愛してもいない男と結婚することへの罪悪感から出たものだろう。美禰子の青春も終わった。美禰子のモデルは平塚らいてう(明治44年【1911】青鞜社を設立し、女性文芸誌『青鞜』を刊行。創刊号に日本の女権宣言といわれる「元始、女性は太陽であった」を執筆した)とも言われるが、美禰子は強固な自己を持つ平塚らいてうからは程遠い存在だった。

風俗画報「新橋停車場之図」1901年(明治34年)

平塚らいてう

映画「夏目漱石の三四郎」八千草薫の美禰子

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