夏目漱石と明治国家7 『三四郎』(7)三四郎と美禰子③
「迷える子(ストレイ・シープ)」は『新約聖書』の「マタイ福音書18章12-14章」に由来する表現。
「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
「ルカ福音書15章4-7章」でも「見失った羊」のたとえをイエスはファリサイ派の人々や律法学者たちに話す。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
ここで述べられているのは大いなる神の愛。「迷い出た羊」、「見失った羊」とは悔い改める必要がある罪人。美禰子が三人(広田、野々宮、よし子)と離れて川の辺まで来た自分たちを「大きな迷子」と表現したとき、自らを悔い改める必要がある罪人と見なしていたのだろうか?彼女はおそらく間違いなくクリスチャン。物語の最後で三四郎が美禰子に会うのは彼女が出てきた会堂(チャーチ)の前。三四郎から「結婚なさるそうですね」と言われると、「御存じなの」と言ったあと、聞き取れないくらいな声でこう言う。
『われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり』
これも『旧約聖書』の「詩篇第51篇」に見える言葉。ダビデ王は、ウリヤの妻であったバテシバと姦通したのち、夫ウリヤを最前線で戦わせ死なせて奪って妻とする。そのことを預言者ナタンに叱責された際に詠ったと伝えられるもの。
「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」
美禰子は、どのような自分の行為をダビデの罪と重ねたのか?彼女は、策略を用いて自分の意中の人物(おそらく野々宮)と結婚するわけではない。自分の気持ちを偽って好きでもない(そうかどうかを漱石は描いていない)相手と結婚する自分を罪人と見なしているのか、三四郎を結果的にもてあそぶことになってしまったことを罪と感じているのか。判然とはしない。それは「迷える子(ストレイ・シープ)」も同じ。ただこちらの方は、自分だけでなく三四郎のことも「迷える子(ストレイ・シープ)」と見なしていることははっきりしている。あの場面のあと、三四郎に届いた美禰子の絵葉書からわかる。
「表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray(ストレイ)sheep(シープ)の意味がこれでようやくはっきりした。」
野々宮とのかかわり方がつかめず思い悩む自分、美禰子とのかかわり方がつかめず思い悩む三四郎を「迷える子(ストレイ・シープ)」と見なしたのだ。大いなる神の愛は問題になってはいない。おそらく漱石は、美禰子をクリスチャンに仕立てることで「全く耶蘇教に縁のない男」三四郎にとっての美禰子の異質性、異文化性を際立たせたかったのではないか。そして個に解体された近代人の他者とのコミュニケーションの困難さ、孤独感を浮き上がらせたかったのだと思う。
レンブラント「バト・シェバ」 ダビデからの召喚状を手に葛藤するバテシバ
「ダヴィデを叱責する預言者ナタン」 画面左にウリヤの遺体が描かれている
ベルンハルト・プロックホルスト「よき羊飼い」
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