夏目漱石と明治国家6 『三四郎』(6)三四郎と美禰子②
気分が悪くて同行の三人と離れて出口へ向かう美禰子。後を追う三四郎。「もう出ましょう」と三四郎。何も答えず出口に向かう美禰子。「どうかしましたか」と美禰子の耳に口を寄せて尋ねる三四郎。やはり黙って谷中のほうへ歩き出す美禰子。谷中と千駄木が谷で出会ったところを流れる小川まで来る。初めて「私心持が悪くって」と口にする美禰子。「一尺に足らない古板を造作なく渡した」橋を先に渡った三四郎は、橋を渡る美禰子に手を貸したくても「無暗にこっちの方から手を貸す訳に行かない。」と思う。「この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。」からだ。川のほとりで美禰子は草の上に腰を下ろす。「派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。」三四郎が「丁度休むに好い場所」と考える場所はもう少し先。『もう少し歩けませんか』と三四郎。『ありがとう。これで沢山』。「三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。」。離れているのは物理的な距離だけではない。「三四郎は水の中をながめていた。」美禰子は?「美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。」そして美禰子は言う。『空の色が濁りました』流れから眼を放して、上を見る三四郎。何か答えようとするが、その前に美禰子が言う。『重いこと。大理石(マーブル)のように見えます』そして三四郎にも『大理石(マーブル)のように見えるでしょう』と聞く。三四郎は「『ええ、大理石のように見えます』と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。」まるで主体性のない三四郎。きたない草で着物が汚れるのを気にし、橋を渡る美禰子に手をかすことをためらい、何と答えていいかわからず美禰子にあわせてしまう。美禰子と二人だけの時間にも没頭できない。人目が気になる。
「男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。」
美禰子は三四郎を振り回そうとしているわけではない、まして誘惑しているわけでもない。ただ自分の気持ちに素直に行動しているだけ。彼女の頭を占めていたのはおそらく野々宮のことだけ。野々宮と美禰子の間で何があったかは描かれていない。漱石はこんな描写で匂わすだけ。
「三四郎は、
『広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう』とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。
『なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの』
『迷子だから捜したでしょう』と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
『責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう』
『だれが? 広田先生がですか』
美禰子は答えなかった。
『野々宮さんがですか』
美禰子はやっぱり答えなかった。」
「責任をのがれたがる人」とはもちろん野々宮のことだろう。あくまで推測だが、美禰子との結婚を避けて関係を進展させない野々宮の態度を言っているように思う。このあと、「迷子(ストレイ・シープ)の話。
「迷える子(ストレイ・シープ)――わかって?」と聞かれ、あれこれ考えていると、美禰子は急に真面目になってこう言う。
「私そんなに生意気に見えますか」
おそらく菊人形展を抜け出す直前の野々宮との会話で彼から言われた言葉を受けてのものだろう。美禰子の頭を占めていたのはこのことだった。三四郎の存在などほとんど眼中になかった。
井上安治「谷中天王寺」明治前期
新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
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