夏目漱石と明治国家5 『三四郎』(5)三四郎と美禰子①

 三四郎にとって美禰子の存在は大きくなるばかり。少しでも彼女に近づきたい、彼女の世界に触れたい。しかし、容易ではない。彼女にとっては野々宮こそが意中の男性で、自己本位に生きることを行動原理とする彼女は、野々宮を惹きつけるためになら三四郎も利用する。場面ごとに見てみよう。

 まず、広田先生の引っ越しの場面。三四郎と美禰子は仕事の合間に一緒に画集の絵を眺める。

「美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。・・・

『ちょっと御覧なさい』と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪(あたま)で香水のにおいがする。

 絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。

『人魚(マーメイド)』『人魚(マーメイド)』 頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。」

 しかし、幸福な時間は長くは続かない。遅れて野々宮がやってくる。

「三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。」

 もちろん、三四郎が気になるのは、野々宮の美禰子に対する態度と視線だろう。野々宮は、みんなより先に帰ろうと言い出すがその場面はこう描かれる。

「『あらもうお帰り。ずいぶんね』と美禰子が言う。・・・野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように『そうそう』と言いながら、庭先に脱いであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。表で何か話している。

 三四郎は黙ってすわっていた。」

 次に、菊人形見物の場面。まず美禰子から誘いのはがき。

「『明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生の家までいらっしゃい。美禰子』

その字が、野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒の上書に似ているので、三四郎は何遍も読み直してみた。」

「野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒」とは、三四郎が初めて美禰子と会った直後の場面に登場。美禰子は三四郎と遭遇する直前に野々宮と会っていたことを匂わせているのだ。「若いほう(美禰子)が今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。」のも、三四郎は勘違いするが、近くにいた野々宮を意識しての行為だったのだろう。

三四郎の中で、野々宮と美禰子の関係についてのイメージが徐々に出来上がっていく、不安を伴って。二人の会話を目にしても、何を話していたか気になって仕方がない。

「どこかにおちつかないところがある。それが不安である。歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄(だんぺい)が近因である。三四郎はこの不安の念を駆るために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。」

 菊人形を見物しながらも野々宮のことが気になる美禰子。二人のことが気になる三四郎。

「美禰子はその間に立って振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄(てすり)から出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。美禰子はまた向こうをむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。」

 この後が有名な「迷子」の英訳「ストレイ・シープ」の場面だ。

小林清親「御茶の水螢」1880

小林清親「御茶の水螢」1880

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