夏目漱石と明治国家3 『三四郎』(3)野々宮と美禰子
東京に出てその「大変な動き方」(「すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。」)に驚かされた三四郎は、それまでの自分の現実世界とのかかわり方に漠然とながら問題を感じる。
「三四郎はまったく驚いた。要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。不愉快でたまらない。
この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫(ごう)も接触していないことになる。洞(ほら)が峠で昼寝をした【注「洞が峠を決め込む」=どちらつかずの日和見的・傍観的な態度をとること。豊臣秀吉と明智光秀が山崎で戦った際、筒井順慶は洞ヶ峠で戦況をうかがい、有利な方に味方しようとしたという故事による】と同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」
大学が始まる9月11日(今と違って、4月ではなく9月始まり)までに二つの出会いがある。一つは野々宮宗八。同郷の7歳年長の人物で母の手紙で会うように言われる。「穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている」理科大学の研究者の野々宮の生活に触れて三四郎はこう思う。
「穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。」
しかし、池(後に「三四郎池」と呼ばれるようになる東大構内にある「心字池」)を眺めながら「薄雲のような寂しさ」、「孤独」を感じた三四郎は上京する汽車で乗り合わせた「女」のことを思い出す。そしてこう考える。
現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。
この時である、三四郎が美禰子(みねこ)の姿をはじめて目にする有名な場面は。二つ目の出会い。看護婦と一緒に三四郎から一間ばかりの所へ来る。そして看護婦と話しながら三四郎を一目見る。
「三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那を意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と言われた時の感じとどこか似通っている。三四郎は恐ろしくなった。」
三四郎の揺れる気持ち(現実世界と接触することへの欲求、願望と恐怖)がよく表れている。そして美禰子はそれまで嗅いでいた白い花を三四郎の前へ落として通り過ぎる。二人の後姿をじっと見つめる三四郎。
「三四郎はぼんやりしていた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と言った。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだか、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしいものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、――このいなか出の青年には、すべてわからなかった。ただなんだか矛盾であった。」
映画「夏目漱石の三四郎」八千草薫
映画「夏目漱石の三四郎」撮影当時の八千草薫
三四郎池(東京大学)
小林清親「新橋ステンション」 明治時代の新橋駅
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