夏目漱石と明治国家2 『三四郎』(2)上京②「髭の男」

 三四郎に「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言った「女」のことが頭を離れない。気を紛らわそうとフランシス・ベーコンの論文集を手にしたところで読めるわけがない。「昨夜のおさらい」をする。

「元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。――

 三四郎はここまで来て、さらにしょげてしまった。どこの馬の骨だかわからない者に、頭の上がらないくらいどやされたような気がした。・・・

 どうも、ああ狼狽しちゃだめだ。学問も大学生もあったものじゃない。はなはだ人格に関係してくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。なんだか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具(かたわ)にでも生まれたようなものである。」

 三四郎は「女」を眺めていただけで「接触していない」、「いけるところまでいっていない」。それは、女性に対する向き合い方にとどまらない、三四郎の現実世界とのかかわり方全般の問題。そんな姿勢を続けている限り、ひ弱な自己が解体され、新たな自己へと再編成されることはない。現実世界と自己が豊かな交流を生み出す関係性は永久に獲得できない。

 列車の中で、三四郎は「女」以外にももうひとり自分の在り方を検討させられる人物と出会っている。「髭の男」だ。浜松の駅で窓から見た西洋人を「ああ美しい」「どうも西洋人は美しいですね」と言ったあと、三四郎とこんなやり取りが展開する。

「『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない』と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言った。」

 自己を解体するには、異質な他者と出会い、自己を相対化すること、自己を批判的に検討することが不可欠。「髭の男」は三四郎の「熊本的世界観」を相対化する。

「熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

『熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……』でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

『日本より頭の中のほうが広いでしょう』と言った。『とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかりだ』

 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。」

 「女」といい「髭の男」と言い、上京する列車の中だけでもこれだけ刺激を受けた三四郎。東京でどのような出会いが待っていることか。

映画「夏目漱石の三四郎」

ヒロイン里見 美穪子は若き日の八千草薫が演じている。小悪魔的な美穪子のイメージとは違うようにも思うが。

映画「夏目漱石の三四郎」

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